戦前の少年犯罪

戦前の少年犯罪

現在の少年に対する「心の闇」論にトドメを刺す1冊 『戦前の少年犯罪』

 心ある少年犯罪研究者が、みんな参考にしている「少年犯罪データベース」の管賀江留郎さんが執筆した『戦前の少年犯罪』が、10月25日にいよいよ発売されます。ということは、私の本と同日ですね。



 実は本を管理人さんからいただいて、もう私の手元にあるのですが、本を開くと、いきなり小学生がナイフや雪駄(!)で、パッカパッカと人を殺しております。「最近の子供はナイフで鉛筆を削ることもできない」などとご高説をたれ流す人もいますが、戦前の小学生たちは鉛筆を削った肥後の守で、他人の命も削っていたのです。



 とにかくこんな少年犯罪が、一冊分まるまる詰まっています。

 もし、これを読んだあとで、「最近の少年犯罪は凶悪化している!」などといえる人間がいたとしたら、その人には日本語を読む能力がないと言ってしまっていいでしょう。また、この本が出た後にそのようなことをいえる人間は、この本が存在することすら調べてないのでしょうから、その発言は何ら信頼するに値しません。

 今後は、少年凶悪化言説をたれ流す人間に対しては「『戦前の少年犯罪』も読んでないの?」と一言言うだけで、反論が完了することになります。まぁ、今までだって「少年犯罪データベース読んでないの?」ですんだのですが、書籍という形で発売されることによって、その必要性はいっそう揺るぎないものになるでしょう。

『ハイペリオン』ダン・シモンズ

ハイペリオン (海外SFノヴェルズ)

 このシリーズをやるうえで、絶対に欠かすことのできない作品。

 なるほど、これは娯楽大作だ。
 全体としてSFの膜に包まれながらも、個別のストーリーはファンタジーで戦争物でホラーでハードボイルドで、そして最後にはとても人間的で、いわゆる「SFを読むような人が好きそうな物語」がこの一冊で楽しめてしまうという、とってもお得な作品。
 500ページ強だが、決して長くない。読書スピードが決して速いとは言えない俺が、実質1日(というか、図書館に返す期日を間違って覚えていたために、1日がかりで)で読んだぐらいだから。
 とはいえ、本筋のストーリーはひとまず続編の『ハイペリオンの没落』を読まないとなんとも言いようがない。それでもなんとなく「厚み」がないように思えてしまうのは、「単純な娯楽大作」というものを否定したい自分自身のねじ曲がった心情ゆえか?

 ところで「日本SF版は山田正紀がやる」って話は本当ですかい?
 つか、山田正紀がこのテーマを扱ったら、絶対にこんなライトな娯楽作品にならないだろ。

『スタープレックス』ロバート・J・ソウヤー

スタープレックス (ハヤカワ文庫SF)

 SFというのは……いや、少なくとも私の接してきた、私の好きなSF群というのは、その高度に発達した科学を文字の上に全開にしながら、その内実は人間のちっぽけな実存の意味を解き明かそうとしている作品群である。
 宇宙の限りない広さや深さは、その一方で人間の有限さを認識させ、新しい種族との遭遇は、人間の固有性をきわだたせる。
 現代を部隊にした小説というのは、限られた箱庭世界の中で、恋愛や人間関係などの別の箱庭を通して、濃密な個人の内実を暴きたてるものだが、際限のない宇宙を部隊にする類のSFは、もっと大きな箱庭で「人間とは?」と、人間の内実を暴きたてる。私は後者の方が好きだ。

 そして、この作品も私の好きなその他のSF群と同じように、「キース」という、髪の毛が薄くなったことが悩みで、優秀な妻を持ちながら、魅惑的な部下の女性に対して目が行ってしまうような、極々平均的な中年おっさん(とはいえ、千人規模の宇宙船の船長なのだから、それなりに偉い)の視点を通して、人間の内実を暴きたてようとする。
 いや、この作品の場合はさらに大きく、「生命体とは?」と尋ねてくる。この作品では宇宙すら、両手の中に発生する小さな箱庭に過ぎない。
 そして、我々がつい無意識のうちに落ち込んでしまう、人間を万物の頂点とする考え方。
 宗教家は神だの仏(ついでに天皇も入れておこうか)だのという創造物を用いて自らの慢心を必死に否定するが、結局のところ人間にとって都合のいい「御上」に過ぎないそれらの存在は、人間への従属物でしかない。
 そうした人間の慢心を、著者のソウヤーは、神ですらない現実的で超越的な存在を持ち込んで、打ち砕こうとしているのかもしれない。

 「神的」とも言える不死の人間と、「まさしく神、創造主」である物質。
 かつての「植民」では相手が同じ人間であったがために、植民側は被植民側を一方的に支配した。
 最近はかつて被植民であった人間たちも、同等な立場だという建前が流通している。本心はしらないけど。そのあたりがこの本だと、人間と同等の立場ということになっている、魅力的な異種族(イルカが人間と同レベルの知性を持った存在として登場する、いかにも北米的なネイチャー感は鼻につくのだが)の存在がその状態を示している。
 しかし、「同等な植民」をしようとした相手がもしも「神」だったら、どうなるのだろう? そうした問いかけを本書は投げかけて、投げっぱなしにしている。(誉め言葉ですよ)

 つか、カトリックの信者は、SFをどういうふうに読むんだろう? 創造主が神じゃないと困るよねぇ。読まないかな(笑)

『オイディプス症候群』笠井潔

オイディプス症候群

 読んでいる途中に、本書が「矢吹駆シリーズ」と言われるシリーズの作品であることを知った。
 シリーズものを途中から読んでしまって困るのは、やはり前作以前の話がでてきてしまうことで、作者が配慮してくれないと、ネタバレになってしまって、以前のシリーズを読む気分が無くなって、さらには「どうせ全部読まないから」と、その後のシリーズも読まなくなってしまうことですね。ある意味地雷に相当するね。

 さて、私はこの本はミステリーとしては駄作だと思います。いや、ミステリーなんかロクに読まない俺がなにを言うかって感じだけど、俺が見ても「それはちょっと」という……
 ここからネタバレありです。(少し行を開けます)












 全部しらべたとか登場人物に言わせておいて、浜辺の小屋をロクに調べてないとか(脱出可能なゴムボートまであるのかよ!!)、主人公であるナディアの考察に、明らかにコンスタンに対する考察だけが欠けているとか、夫人がそれまで存在がまったく明かされない地下に潜んでいるとか、ミステリーと称するには卑怯というか、穴ありすぎというか……
 もっとも、著者が書きたかったのは文章中に多々はさみ込まれる哲学談義であって、ミステリーはそのための飴だと考えれば腹も立たない……?
 じゃあ、ならば哲学本で発売しろよと思うのですが、それじゃ売れないからミステリーなのかな? という気もします。哲学本だったら単行本で3,200円という価格も不思議じゃないな(苦笑)。

 哲学談義の部分は、パノプティコンと探偵小説の関わりの部分が興味深かったですね。それを踏まえて、私の考え方を少々。

 ぶっちゃけ、「名探偵コナン」が子供に与えている影響は極めて大きいと思います。
 事件の中から真犯人を発見し、「真実はたった1つ」と事件というモノを単純化し、真理性を与え、さも監視、コントロールできるものであるかのように子供の前に提示する。
 犯罪行為への厳罰化とコナンの存在は、決して不可分ではない。「厳罰化によって、犯罪を減らす」という志向は、犯罪コントロールそのものだ。
 そして「見た目は子供」であるコナンの存在は、「どこにでもある監視の目」というパノプティコンを体現している。犯人が子供だと思って安心している時に、「頭脳は大人(って、高校生は子供だろ)」である新一は冷徹に犯人を監視しているわけだ。
 小説にとって「犯人の内実」は極めて重要かもしれないが、パノプティコンとしての探偵小説としてはそんなことは重要ではなく、ただ「最終的にパノプティコンが犯人を突き詰める」ことだけが重要である。「探偵小説のサイクル化」という決まって判で押したようなトリックと犯人の動機をくり返す、名探偵コナンという番組は極めてシステマティックに存在している。

 結論としては「ミステリーとしてはさほど面白くなかった」ということで。

『搾取される若者たち』阿部真大

搾取される若者たち ―バイク便ライダーは見た! (集英社新書)

「労働問題は学者のメシの種じゃない」


 現実に搾取される側の人間としてこの本を読んで感じたのは、怒り半分、呆れ半分。
 だが、それは決して、著者の示すような、仕事への執着こそが搾取構造を生み出す不平等なシステムに対してではなく、著者に対してだ。

 この本に示されているのは、それこそ昔からよくある、自由裁量労働だ。そして、その問題点を見事に突いている。
 だが、所詮はそれだけのこと。「ミリオンライダー」という言葉があるように、彼らは働けば働くほど給料が得られる。その代わり、健康や事故のリスクが大きい。「働き過ぎ」や「過労死」が話題になった頃の古い労働問題である。

 しかし、現在問題にされている新しい搾取構造は、これとは異なる。
 いくら頑張って働こうとも給料は上がらず、手取りでせいぜい十数万。コンビニやガソリンスタンド、本屋などでのバイトなら給料が安くとも安定性はなんとかあるが、派遣の工場労働に至っては、労働契約が毎日更新の例もあり、給料も安定性も劣悪だ。安全性など、使い捨て労働者には贅沢だと言わんばかり。
 こうした、現代版「あゝ野麦峠」ともいえる構造こそが現代の搾取問題なのだ。

 著者は「「やりたいこと」を仕事にできないニート、「やりたいこと」を仕事にできたワーカーホリック」という二極化が進行しているというが、この認識からは、やりたくないことをせざるを得ないフリーター達の存在が完全に消えてしまっている。つまり、そもそも問題自体を認識できていないのだ。

 結局この本は、たまたま著者がバイクに興味があって、バイク便の仕事を選んで働いた経験を書いただけのものだ。それが著者が東大の大学院生であったというだけで本になったのだろう。

 我々が搾取されているのは、決して経済界からだけではない。正社員の労働者たちは我々を自己責任論で見下し、親たちは我々を無能者呼ばわりして自尊心を得る。
 そして、それは労働問題を自分たちのメシの種ぐらいにしか思っていない学者連中も同様だ。

 『冠婚葬祭のひみつ』斎藤美奈子

冠婚葬祭のひみつ (岩波新書)

 日本の歴史修正主義者がいう「伝統」などというもののほとんどが、第二次世界大戦前後の慣習に過ぎないというのは、もはやお約束のような話だが、それはどうやら冠婚葬祭も同じらしい。
 冠婚葬祭は、さも伝統と風格を重んじるようなイメージを浮かべながら、その実はビジネスライクに、かつ社会の要求に沿った形で作り替えられ続けてきた。
 結婚の様式は大正天皇昭和天皇今上天皇と、ロイヤルウェディングを大きな契機に変化を続けている。
 また、そのマニュアルは古くは結婚や初夜についての心構えを説教するようなものだったのが、やがて礼儀や一般常識を履修するためのテキストに変化していった。
 葬式については結婚ほど劇的ではないものの、遺体の処置方法が土葬から衛生的な火葬に変化するにつれ、その方式が変わっていった。
 そして、その両者共に現在は、重要な儀礼というよりも一種のイベント的な性質を求められるようになってきている。
 しかし、それは決して冠婚葬祭の意味を貶めるものではないだろう。
 我々が社会の中で生活するうえでは好ききらいに関わらず、必然的に冠婚葬祭と向き合わなければならない。
 「結婚式を挙げない」「葬式は散骨にしてほしい」という、儀礼を避ける行為自体も、それは逆説的に冠婚葬祭と向き合う行為に他ならない。
 どうせ向き合うことを避けられないならば、そのことについて詳しく知っておくべきだ。
 経済格差が発生している現代社会では、マニュアル通りの冠婚葬祭費用を捻出できない可能性もあり、多くの事を知っておくことが我々の生活の安全安心にも繋がっていく。
 そうした必要性を、斎藤美奈子は「過去から現在にかけて数多く出版されつづけてきた冠婚葬祭マニュアルを批判的に読み解く」という彼女らしい手法で、我々の目前にハッキリと晒してくれている。