堀江逮捕の件は、昨日の文章で終わりにするつもりだったのだが、東浩紀の文章で、もう少し触れておく必要がある疑問を思いついた。

 それは、「なぜ堀江が「世代交代側」の立場だと社会に捉えられるのか?」ということだ。



 私は、いつものごとく社会とは全く逆のことを考えていて、堀江のやっていることは確実に既得権益のケツ舐めだし、べつに「世の中金がすべて」なんて、確かに堀江も言っていたけど、現実にすでにそうだったワケだから、何も堀江が経済の意味を変えたわけじゃない。当時すでに小泉はファシストとして大上段から物を語っており、それに便乗するネオコンがそこら中にいて、その意味も分からず「強い日本」などと馬鹿みたいにはしゃいでいる連中もいた。

 それなのに、なぜか堀江が「今までと何か違う、新しいもの」と捉えられ、さも世代交代の側であるように認識されている。日本人は第二次世界大戦前後の歴史だけではなく、近鉄バッファローズ騒動以前の歴史すら忘却してしまったようだ。下手すると、衆院選での自民党圧勝(=株価回復)以前の歴史すら覚えてないのかもしれない。



 昨日の文章は、既得権益層に対する「反撃」への期待感の表明として、「あえて」堀江と団塊ジュニアという世代論を表明してみたわけだが、社会はそうした意図もなく、ごく自然に「堀江は若いのだから、団塊ジュニアを代表していて、世代交代側だ」と素朴に信じているようだ。

 たしかに、我々の世代はいつまでも社会の中枢に居座る団塊に頭を押さえつけられ、また不況の責任を押しつけられ、その存在価値をまったく認められないでいる。

 その場合に、我々はどうするべきか。あるものは、少しでも団塊世代に媚び、わずかな分け前でも恵んで貰おうと考える。あるものは、それでも自我を通し、瀕死の状態に置かれる。

 そして、その前者がホリエモンであり、後者は……誰だろう? ごく一部の良心的なジャーナリストかな?

 しかし、世の中はどうも堀江に反骨精神を見ているようだ。それは、堀江が社会ではなく、一部の会社に対して、反旗を翻したからだ。近鉄の件もそうだし、ニッポン放送買収騒動などが、そう捉えられるらしい。

 けれども、経済的巨大さをもって、相手の頭を押さえつけるような動きは、たとえば銀行の度重なりすぎて、すでに原型をとどめていない合併ごっこと意味合い的には変わらない。(UFJ東京三菱銀行なんて、いったいなんの冗談だ?)

 こうしたマス取りゲームは、堀江が始めるまでもなく、すでに始まっていたわけで、そのゲームを批判することなく加わることこそが団塊のへの媚びである。



 団塊は「一億総中流(層)」という圧倒的な下流志向の元に生きてきたのにもかかわらず、さも自分たちが努力をして日本経済を復興させたかのように勘違いしている。そしてそのことが彼らの存在意義であり、誇りである。

 ならば、団塊に対する反骨ならば、彼らの欺瞞を暴くことであって、彼らの資産を普通の役員交代、企業買収であるにかかわらず継承し、彼らの努力と栄光を称えることはケツ舐めに過ぎない。

 振り返れば、堀江の起ったことは新たなチャレンジでも何でもなくて、今までの経済文脈で無理矢理会社をデカくしてカネとフダをぶんどって「大企業の役員は人間的にも偉いのだ」と威張る、今までの「会社=社会」論理に過ぎない。



 だから、私は今回の堀江の逮捕に、東とは逆に「世代交代の兆し」を見るわけだ。

 団塊ジュニア以降の世代に、既存の経済性に媚びることなく、新たな世界を作り出すことを期待するわけだ。

 そして、団塊世代に対しては、経済によってケツを舐めあう同士の内ゲバが始まるぞ! と楽しみに思う。