問題は「金」という言葉が有するイメージ
「CLick for Anti War 最新メモ」の2006-03-03 より
個の中で引用されていた「嫌韓厨が顔まっかにして泣きながら怒る一言って?」スレッドの引用に、こんなものがある。
【一言】
「山野車輪って、一生『嫌韓流』しか描かないのかなあ?」
【解説】
「代表作は『嫌韓流』です」・・・かなり香ばしい漫画家人生ではある。
思うに山野車輪は、一般的な漫画家が持つメリットのほとんどすべてを
捨ててる気がするんだが。つまり、
・サイン会ができない
・友人に自慢できない
・親戚に自慢できない(「親戚が口をすべらして正体バレ」が怖いので)
・漫画家の友人ができない(同上)
・海外版が発売されない
・テレビに出演できない
・メジャー誌に書かせてもらえない
等々。
確かに、箇条書きにされた内容はその通りだとしか言いようがない。
ただ、問題は箇条書きの部分ではなく、ここでされている前提に隠されている。
具体的には山野車輪を「漫画家」と称している部分である。
私はハッキリいって、山野の絵がうまいとは思えない。同人誌レベルだと思う。
具体的には、現在の劣化した富樫の絵を、さらに劣化させた同人作家の絵だなぁ。と思う。
普通のマンガを描いていたんじゃ、絶対に売れなかったと思う。
しかし、現状、多くの人が山野を知っている。
少なくとも、山野の名前は知らなくても、彼の描いた作品を多くの人が知っている。
そして、多くの厨が山野の作品を買っている。
山野にはかなりの印税が入ったはずだ。
結局、山野は嫌韓流を描いたからこそ、こうして「漫画家」と呼ばれて、それが社会に認知されているのだ。
つまり、山野はそもそも嫌韓流がなければ漫画家として認知されることはなく、引用先の人の言う「漫画家が持つメリット」などを得られなかったわけで、そう考えれば「嫌韓流」は、山野にさまざまなメリットを与えはしたものの、何も奪うものは無かったのだ。
山野は、ウヨに支えられ、ウヨのおかげで漫画家と社会に認知され、十分な収入を得ている。そしてこれからもウヨのさまざまな出版物に、その生活を支えられるだろう。
じゃあ、左翼は誰か若者の生活を支えているのか?
……ここに支えてもらいたいのに、全く支えてもらえない人間がいるじゃないか。
小泉政権は決して意図的ではなかったが、杉村太蔵という「ニートみたいなもの」を手に入れた。
その存在はマスメディアにとっては「面白いもの」であったが、一方でいつも批難され、仕事はもちろん人間性すら団塊の世代に奪われ、底辺で這いずりまわらずをえない若者たちにとっては「うらやましい」対象となった。
山野も同じで、冴えない漫画家みたいなものが、ウヨの力添えによって本当に漫画家として認められ、収入を得られるようになった。
それは若者たちにとっては、まさに「シンデレラストーリー」だ。
当然、彼らはこう考える。
「俺も、自民党を支持して、韓国の悪口を書けば、いつか認められる日がくるのではないだろうか?」と。
それを「あまりに単純過ぎる」と笑うのは簡単なことだ。
だが、それを笑えるのは、笑う側が若者たちの苦境を理解せず、さも自らが「ちゃんと生きてきた」かのように錯覚しているからである。特にウヨ厨を嘲笑う左翼は、自らをエスタブリッシュメントだと思い上がっているから尚更。
私はそうした思い上がりを「金」という単語のイメージに見る。
若者は「お金が欲しい」という。そうした風潮を、いわゆる「大人」は批難する。
やれ「拝金主義」だの「働け」だの「努力が足りない」だの。
しかし、高度経済成長という幸福な時代に育った人間には分からない。
「金は天下のまわりもの」であって、決して当人の努力や才能に応じて、正確に分配される物では無いということが。
そもそも、いわゆる「大人」が年齢を経るにしたがって、給料が順調に上がり、「いつかはクラウン」「いつかは持ち家」などと夢想し、それを実現してきたのは、彼らが生きているのと平行して、経済の驚異的な成長があったからだ。
あの時代は誰もが「普通に会社にいれば給料が上がった」のであり、決して当時の会社員が何か重大なことをなしとげたからこそ給料が上がったなどということでは、決してない。
高度経済成長の当時、給料が上がるのは当然だったし、そのことを誰も疑問視しなかった。人は成功を確信している時は、そのシステムを疑問視などしないものだ。
そうして成長したいわゆる「大人」達は、「給料を得る」事を、空気のように扱っていた。
誰もそのことに疑問を持たなかったし、それでも日本経済は成長していたのだ。
それからのちはバブルが崩壊してなんとかかんとかでこんな状態。
ところが、それでもいわゆる「大人」達は、決して給料を手放そうとはしなかった。彼らはそれを受け取るのが当然だと考えていたし、社会もそれを当然として考えることで成り立っていた。
そこで、彼らは若者に与えるべき金を奪い取った。
そうした行為が問題視されなかったのは、ひとえに「大人が若者の金を奪い取っても、若者は当然給料を受け取るものだと考えていたから」にすぎない。
ここで、「一体どこからその給料はでるのか?」と疑問が浮かぶのが当然である。しかし、給料をもらうことを空気としてしか考えていなかったいわゆる「大人」達は、そんなことを考えもしなかったのだ。
やがて案の定、若者たちの中で給料をもらえない人が出てきた。
そこで彼らは疑問に思った。「なぜ、彼らは給料を得ることができないのか」。
もちろん答えは「経済が停滞しているのに、大人の給料の水準を維持し、その分を若者に支払うべき給料から奪い取ったから」だ。
しかし、彼らはそうは考えなかった。給料は「普通」に生きてさえすれば、貰えて当然のものだと信じて疑わなかった。
別にその結論を書く必要性はないだろう。現在の若者に対する無責任な視点のほとんどが、この答えなのだから。
さて、ここまで書いて、ようやく本題に入れる。
問題は「金」である。
給料を空気のように貰ってきた大人にとっての「金」は、「自分たちの標準的な生活に対するプラスα」である。
給料という土台自体は空気なのだから、「金が欲しい」と言えば、具体的には「もっと贅沢をしたい」「もっといい車に乗りたい」「もっといい服を着たい」という意味になる。逆に「金なんか欲しくない」と言っても、それは給料を貰うことを前提にした言葉である。「清貧」などと言う言葉が流行ったことがあるが、その意味は決して「貧困」ではなく、ただ「あまり金を使わない」という、基礎的な生活に立ち返るという意味でしかなかった。
一方、給料を貰うことが困難な底辺を這いずるしかない若者にとって「金」というのは、人間の尊厳そのものである。
もはや給料を「空気」と感じられない若者にとって、「金がない」のは死活問題である。土台は既にないのだから、金を得て初めてそれを土台にすることができるのだ。
そして、給料という土台の存在を前提としてきた日本社会において、土台が存在しない人間など、人権がないのと一緒なのだ。だから社会は「ニート」などという言葉を捏造してバッシングをくり返しても「おかしい」などとは考えない。
だから若者は「金が欲しい」という。それはすなわち「人間として認めてほしい」という魂の叫びですらある。
山野車輪や杉村太蔵は、ウヨや自民党によって「あなたは人間である」と認めてもらう事ができた。
その実績の存在は、這いずり回る若者たちを十分に引きつけ、魅了した。そして若者たちは希望を持った。
で、左翼は若者にいったいなにを与えてくれるんだい?