団塊世代ハ神聖ニシテ犯スヘカラス

 昨日の「問題は「金」という言葉が有するイメージ」に多くの反響をいただいているようで、嬉しい限りである。

 しかし、なんか私の明示した問題点がちゃんと伝わっていない。ウヨだサヨだのいう論点を利用した私が悪いのかも知れないが、それにしても……

 特にclawさんのところは、clawさん自身も、そのコメントも、問題をあまりに短絡視し過ぎていて、「給料を貰うことが困難な底辺を這いずるしかない若者にとって「金」というのは、人間の尊厳そのものである」という、もっとも重要な視点にまったく降りてきていない。

 山野やタイゾーなんてのは、あくまでも例示に過ぎないのだから、そこに突っかかったって意味はない。

 コメントを一つだけ抜き出しておく。


# anderson 『バブルでエエ目でけへんかったからウヨになるんや〜って、そんなアホな。

 なにを勘違いしているのかは知らないが、私はあくまでも左翼が本当の弱者である若者に対して「何もしていない」ことを批難しているのである。

 左翼が若者を無視する一方で、右翼が意図的であるかないかは関係なしに、若者に対する「真っ当に扱われる道」のようなものを示してしまっているからこそ、若者が右傾化するのである。

 若者に限らず、ほとんどの人間が、自らを丁寧に扱ってくれる方に行きたがるのは、当然の事である。確かに右翼側は若者を「奴隷として」丁寧に扱っているというのは、確かにその通りなのだが、ならば左翼はどのように若者を扱っているのか。部落や在日にかまけて、若者の事などほとんど省みてないのが現状ではないか。

 だから、私は左翼を批難しても、弱者たる若者を批難しない。ここで若者を批判するのは、「黒人労働者のスト破りを批難する白人活動家」のようなものである。(それがまさに、左翼の現状だろう)

 左翼が若者を無視し続ける限り、若者には右傾化し、一部権力者の奴隷に成り果てるしか生存の道はないのである。


(4)左翼は若者に未来の可能性をひとつ(またはそれ以上)もたらす。(clawさん)

 なんてことは、実際に若者に可能性を与えてから言うべきだし、


 結局奪うのではないか、と言うかもしれない。どこが違うのか。少しでも後ろめたさを感じなくていい、そういう影が少なくて済むような金を与えてくれるのが、左翼。金なら同じだと言うのが保守。金以外のものとの両立を目指すのが左翼。金以外のものを差し出せというのが保守。共に取り戻そうと言うのが左翼。奪ったものを奪った相手の目の前にちらつかせることを恥とも思わないのが保守。(mojimojiさん)

 なんてことは、実際に若者に「そういう影が少なくて済むような金」とやらを与えてから言うべきだ。

 左翼は若者から奪うだけで、何も与えていない。

 与えているというなら、理屈ではなく右翼のように実例を示せ。


 さて、単純な反論はここまでで、ここからは「なぜ左翼は若者に金を与えないのか」ということを考えてみたい。

 いや、もう少し考えてみる対象を広く取ろう。「左翼は」ではなくて「大人は」にするべきだ。私は決して右翼が「積極的に若者に金を与えようとしている」などとは考えてなくて、右翼だって若者から搾取することばかり考えていると、考えている。

 実際、お国のために死ねだとか言うのは右翼だから。



 そう考えると、お題は、「なぜ「大人」は若者に金を与えないのか」ということになる。

 つまり、「若者に金を与えない」のは、右左かかわらず、大人の共有意識と考えることからスタートする。

 で、ここでさっそく疑問が浮かび上がってくる。

 「「大人」っていうのは、誰のことなのか」という疑問である。

 厳密に考えるのも面倒なので、とっとと定義する。

 「35歳以上が大人」だ。

 理由としては、いわゆる「ニート」における「若者」の定義が34歳以下になっていることから、このように考える。

 そして、34歳以下というのは、今の日付現在では「団塊ジュニア以降」ということである。

 すなわち、団塊ジュニア以降は「若者」で、団塊ジュニア以前が「大人」と、こういう定義を行なうことにする。

(ちなみに、この34歳以下は若者だというニート論での区割りは、年金をもらうために国民年金を支払う最低年数の「25年」という所からきていると思われる。こうしたことからも、ニート論はニート当人のための議論ではなく、年金問題解決するために持ち出されているという現状が理解できよう)



 さて、一度、世代論で話を括ってみよう。

 世代論的に考えると団塊ジュニア以前は、たとえば団塊の世代であるとか、新人類世代であるとか、いろいろ言われているが、これらをひっくるめればバブル以前の「高度経済成長世代」ということになる。すなわち、経済的な挫折をほとんどと言っていいほど味わったことのない世代だということ。一方の団塊ジュニア以降は経済的な成功をほとんどと言っていいほど味わったことのない世代である。



 前回でも記したように、高度経済成長世代は、給料を空気のような物として、それを得ていることに何ら疑問を抱かなかった世代である。それは経済が成長を続けていたからだ。

 一方で若者は、社会人になった時にはバブルは弾け、経済の成長もほとんど止まってしまったのだから、給料を得ることが「人間扱い」の第一段階になる世代である。



 ここで小杉太一郎さんの意見を考えてみる。


で、左翼は若者にいったいなにを与えてくれるんだい?という問いかけはまさに現在の左翼の問題点をずばり突いている。だが−これは先ほどの宮崎学氏のサイトに対しても言えることなのだが−お金があれば自尊心=尊厳が得られるというのはちょっと古くさい考え方だと思う。

 私はこの論点に、高度経済成長世代の傲慢を見る。

 いや、別に小杉さんが高度経済成長世代なのかどうかは関係ない。

 真の問題は、高度経済成長世代の傲慢を、日本人の大半は決して傲慢と見ないということの方にある。

 私が前回提示した問題そのものが理解されないのは、日本人の大半がどっぷりと、この傲慢温泉というぬるま湯に浸かって、現実に目を向けようとしないからだ。



 さて、「お金があれば自尊心=尊厳が得られるというのはちょっと古くさい」というのは、一体どういうことなのか。

 「一億総中流」という言葉がある。これは1970年ごろから言われるようになった。

 単純に考えれば「みんな真ん中程度の収入を得られるようになった」という意味だが、グラフを見れば分かるように、本質的には「下」が少なくなったという意味である。

 嫌下流社会の方でも述べている通り、ここで扱っている「上中下」というのは、客観的な経済的状況ではなくて、主観的な意識なので、この一億総中流という言葉は、「下、すなわち貧困がなくなったとみんなが思っている」という意味になる。



 そして、小杉さんのいう「お金があれば自尊心=尊厳が得られるというのはちょっと古くさい考え方」という意識はこれから生まれている。つまり「一億総中流社会なのに、今さら貧困はないだろう」ということです。そういうと小杉さんは否定するかもしれないが、現実に格差が広がって賃金が問題になっている今、そのような事を「古い」と断言するためには、ここまで時代を遡らないと、そう言えないのだから。



 ここまでをまとめると、こういうことになる。

 「一億総中流時代になって、貧困をなくしたと、高度経済成長世代は思っている」



 その後、バブルが崩壊し、一億総中流が崩れたと考えられた、すなわち「貧困が再発生し始めたと考えられた」(ただし、先のグラフを見ると分かるとおり、自分が下だと思っている人は増えてないことには注意)時に、右翼は「愛国心のが大切である」というパラダイムシフトを明確に行なった。そして彼らは「戦後」を否定した。

 一方、左翼は戦後高度経済成長時代の中で、貧困が失われたことを重要視し、決して戦後の高度経済成長時代を否定することはない。

 だが、ハッキリいえばこうした左翼の態度こそ鼻につくものはない。



 終戦後の困窮しきったた日本から貧困を追放し、一億総中流を成し遂げた。このことは、高度経済成長世代にとって、自尊心の最大肯定となった。

 しかし、そのことは「高度経済成長世代」という全体において言うことはできても、高度経済成長世代の個々人が高度経済成長を達成したわけではない。あくまでも経済としての総体がそうなったに過ぎない。

 だが、世代論と個人は安直に結びつくもので、高度経済成長世代の多くが、自らの個人的な良否を振り返ることなく、こうした成功を自らの功績として誇りと考えている。

 こうした精神構造の人間が、一方の「経済的成功を味わったことのない」団塊ジュニア以降の世代に対して、偏見を持つのはごく自然なことだろう。

 我々、団塊ジュニア世代以降の若者たちは、いつだって大人の自慢につきあわされることに辟易していた。

 そしてその自慢は、我々への安直な攻撃となって、我々を貶めた。

 だから、我々は高度経済成長世代が大っ嫌いなのだ。自分たちだって大したことなんかしてないくせに、たまたま運良く高度経済成長の時代に生まれただけで威張っているのだから。



 そう考えるようになれば、若い人たちは当然、「高度経済成長世代を否定するために」、戦後を否定する右翼に習って右傾化する。

 もちろん右翼が「戦後を否定している」といっても、高度経済成長を否定しているわけではない。経済成長で得た金を両手一杯に抱えながら、金の他にも大切な何かがあるかのようなポーズを見せているだけのことだ。

 その点で右翼も左翼も同じ穴のムジナだ。両者にとって高度経済成長時代は「神聖ニシテ犯スヘカラス」ものである。右翼も左翼も自分たちが金を抱え込んでいることに対して、なんらおかしさを感じていない。まさに彼らにとって給料は「空気」なのだ。

 さて、では我々はこうした構造に対して、どのような解決策を持つのか。

 私はそのことを考えた時に、「若者にお金を与える」ことが、もっとも簡潔かつ自然な解決方法であると考える。

 つまり「失われた10年」の不幸をモロにかぶった若者たちに対して、国家的な賠償を行なう必要がある。


問題は「金が無い」ということではなく、「金があっても何かが足りない」ということではないだろうか?そしてその問いに対しに対し右翼は「公の気持ちがないのだ!」とか「愛国心がない!」と言い、共同幻想によってその穴を埋めてくれる。では左翼は一体そういう全体主義的答えを出さずに、何で穴を埋めるのか?または、如何に穴がある状況を肯定する社会を作り出すのか?それこそが今左翼に問われている根本問題なのである。

 理想論としては、もっともな意見ではあるが、現実に満足に給料がもらえない若者が多くいて、それに対して大人が偏見を持っている(=すなわち、大人はバカなのだから期待できない)以上、若者に給料を与えることが、解決のもっとも重視されるべきファーストステップである。

 我々は資本主義社会に生きる以上、金が無ければ生きられないのだ。思想だなんだのは、最低限の金が得られてからの話である。

 それを否定し、さも思想だけで生きられるかのように吹聴する左翼が、「エスタブリッシュメントぶっている」と言われても、仕方がないだろう。


#いろいろ考えてみたけど、まだ全然論理展開が荒いなぁ。