金こそが自由を担保する
今回でこの流れはいったん終了。明日の更新からは下流社会に戻る予定。もっとも、これも下流社会繋がりではあるわけだけど。
だったら資本主義社会を壊せば良いじゃないかと、僕は本気でそう思う。今生きている社会構造の中でどう人々を治めるかを考えるのは、保守の役割であって革新の役割じゃない。革新はその「お金がなければ生きていけない」という社会構造を壊せとアジる人達なんだから。
うん。別に壊せばいいというなら、壊してくださいよ。
しかし、それをするのはあなたたちですよ。
自らは資本を腕の中に抱え込み、物欲にまみれた旧来左翼がロクにそれをやらないで、なんで苦痛と苦悩に苛まれる我々がそれを実行しなければならないのか。
こうした「弱者にスーパーマンになれ」と迫るがごとき論理は、完全に当人の責任を棚上げしています。
資本主義にまみれたぬくぬく左翼が自らは責任を放棄し、貧乏人に自己責任を迫るなどというのは、イラクの人質事件に対する、自己責任を放棄した批難と、大して変わらないのでは?
確かにその様な方策によって世代間の格差は解消されるかもしれないが、しかしそれはまた別の格差を生み出すだろう。資本主義社会はそれが資本主義である限り必ず格差を生み出す。例えば、この記事では団塊世代がみんな裕福であるかのように語るが、しかし実はホームレスの平均年齢はそのまま団塊世代の年齢と合致することからも分かるように、団塊の世代の中にも格差は存在するのだ。若者に対して国家賠償を行うことは確かに世代間格差は無くすかも知れないが、しかしその裏でこの様な世代内格差は無視される。それが本当に左翼の目指すべき道なのだろうか?
私は今回の文脈の中で「若者に給料を!」と訴えているけど、それはホームレスに対しても同じことですよ。「ホームレスにも給料を!」。(「給料」というのは「お金と仕事」なので、お金だけを与えればいいという話とは違う)
つまりは、人間が生きるに必要なセーフティーネットを弱者に適用すべきで、そのセーフティーネットは給料だ。ということが私の考え方の原則です。そして、そのセーフティーネットを準備するのは、差別丸出しの右翼ではなくて、平等ということを言う左翼しかないのです。左翼ってのはそういうことをしたいからこそ左翼なんでしょ。
ところが、なぜか右翼が積極的に若い人をオルグして、左翼が見て見ぬふり。そこには、高度経済成長世代の「給料は空気」という傲慢があると、私は見ています。
もっと根源的なことを言ってしまえば、「金こそが自由を担保する」のです。
左翼が若者の窮状に大して無関心なのは、まさに「♪お金よりも大切なものがある〜(サラ金のCM)」などと傲っているからに過ぎないのです。
そしてその傲りは、かつての高度経済成長、すなわち寝てても給料が上がった特殊な時代の存在を前提条件にし続けている、大人の左翼の傲慢です。
思えば、現在の左翼運動体など、大学に行って政治活動などをして生活できていた裕福なお坊ちゃんお嬢ちゃんたちの集まりなんだから、貧乏人のことなんか分かるハズもなく、「セーフティーネットとは、給料だ」なんてことを叫んでも、彼らにとっては「空気なんてその辺にあるじゃないか」としか実感できないのでしょう。だから「それ以上の霞」ばっかり求めて、弱者にとってはなんの役にも立たない。旧社会党や共産党の凋落ってのは、そういうことではないのですか?
確かに人生にはお金よりも大切なものがあるのかもしれませんが、必要最低限の給料、すなわち人間の尊厳を担保するレベルの金がなければ、人生自体が「ない」のです。
ここから少しトーンを変えて。
私は、現状においては資本主義がもっとも優れた「自由な」主義であると考えます。
その理由は「金」という権力に対するオルタナティブが存在するからです。
共産主義とその途中の社会主義がなぜ失敗するかといえば、金が権力によっていったん握られる構造になっているため、権力に対する強力なオルタナティブが存在しないからです。
「金」のオルタナティブ性は、最近で言えば堀江が巨大な経済界にあそこまで肉迫したことが一例として挙げられるでしょう。
最終的には地検という権力により堀江は潰されましたが、「金があれば権力側に回れる」という交替可能性が現実に存在することが、あの件によって明らかになりました。
私がネオリベを憎むのは、政府が金の再配分(共産主義と違って、掌握ではない)を放棄し、金そのものの流通を権力側でのみさせようという思想であるからですが、その点についてはネオリベも共産主義も似たようなものです。
私は権力に対するオルタナティブとして機能する金を幅広く流通させるべきだと考えますし、経済論理からみても、幅広いプレイヤーの存在は必要不可欠なのです。
ならば、資本主義下の政府の役割とは、まさに「金を幅広いプレイヤーに流通させる」ことであり、現在のフリーターやホームレスなどの経済弱者に対する政策不足は致命的な政府の怠慢なのです。そして、その怠慢の中に左翼勢力も含まれるのです。
左翼は―例えそれが如何に困難であろうと―世界の全ての人が幸福になれる道を探すべきなのだ。
私はそれを「資本主義社会の下、全ての人間が経済的プレイヤーでいられる社会を形成する」ことであると考えています。これは別段目新しい論理でもなくて、単なるセーフティーネット論です。ただ、唯一「セーフティーネット=給料」と、具体的に考えたことだけが違います。
「社会保障」という極めて曖昧な言葉で括られていたセーフティーネット論に、「給料」という具体性を持たせることにより、「弱者を誰かに保護されるだけの存在であることを前提に保護するのではなく、十分な社会的主体として活躍できる存在として認めさせなければならない」と、私は強く主張しているのです。人間が「社会的主体」であることが、すなわち「自由」です。私はそう自由を理解しています。
右翼が弱者の保護を認めない一方で、左翼は「被保護者」としての保護しかしようとしない。右翼が弱者を殺すのならば、左翼は弱者を生かさず殺さずの範囲でしか保護しようとしません。
そうした左翼の勘違いは、まさに「給料なんて簡単にもらえるじゃん」という高度経済成長世代の傲慢から来ているのです。
左翼はそうした旧来の考え方を放棄し、給料を得られない存在がいることをベースに、スタンスを組み替えるべきなのです。それができていないからこそ、若者が右翼側になびいていっているという現状があるのです。