いったん終了といいつつ、こぼれ落ちていた論点と、自分の考え方に対する自己批判を少々。

 まずは、こぼれ落ちていた論点から。

 簡単に言うと、「努力したこと」と「経済的成功」の間に因果関係は成立するのか? という疑問。

 ひとまず昨日までの記事では「給料」という視点からこのことを見ていたけれども、その本質は高度経済成長という文句の付けようもない「世代的」成功が、「個人的」成功に結びつけられ、「我々は努力をしたのに、若いやつらは努力をしていない」という話になってしまうということ。「下流社会」なんてのは完全にそういう話だし、これを「ゲーム」という因子にすり替えれば「ゲーム脳」になる。「教育」を因子にすれば「ゆとり教育でおかしくなった」「教育勅語を教えるべきだ」という話で、さらに「世代性自体」を因子にしてしまえば「若者がなにかおかしい」という話になる。

 つまり、高度経済成長という成功体験が、高度経済成長世代の体験をすべて成功の因子であるかのように偽装すると同時に、それと意の沿わないものを失敗の因子であるかのように理解し、失敗の因子を排除しようとすること自体が「高度経済成長世代の傲慢」であると、私は考えている。

 まさに昨今の「高度経済成長世代の暴走」はこれに支えられている。



 けれども、素直に考えれば、高度経済成長と個々人や世代の体験の間に、因果関係などないことは明白。そんなことで経済が急成長するなら、世界中に不況を訴える国などなくなるだろう。

 現代のグローバリズム経済の中では、個々人の経済コントロールなどは大シケの海の中で小舟の櫂を必死に漕ぐが如きもので、ハッキリいえば「運」みたいなものだ。

 その一方で、経済状況にそれなりに影響を与えるはずの政府や国の金融は、高度経済成長世代がコントロールしているくせに、不況にまったく太刀打ちできない。そのことの責任を個々人の意識に押しつけるのは、卑怯以外の何物でもない。

 しかし「高度経済成長世代の行いは、すべて成功の因子」と信じて疑わない連中には、そういう当たり前のことを、さっぱり理解することができない。だから当たり前にされるべき政府批判が、なぜか若者批判にすり変わってしまう。

 こうした状況は、国民が主権者たることを忘れ、次世代を萎縮させ、国全体を萎えさせるという重大な問題である。



 今度は、自分の考え方に対する自己批判



 私は簡単に「給料」と言ったけど、その給料はどの水準で給付されるべきか。

 私はいまの「生活保護」という制度は、全くその存在意味をなさないと思っている。

 不正給付がどうのという問題ではなく、既に極めて時代遅れの生活レベルでしか、保護ができていないという方の問題だ。

 たとえば「クーラーは贅沢」などというのは、確かにクーラーがなくても生活できることはできるだろうから、構わないが、じゃあ携帯やパソコンなどという、既に基本的なインフラとなっているものに対して、これを給付していくことができないのは大きな問題である。

 ああ、生活保護から離れよう。

 生活保護とか関係なしに、とにかく私が要求する「生活上最低限のレベル」というのは、すなわち「給料」であり、それは人間が「経済的プレイヤー」として自立できるレベルなのである。

 それはもちろん、携帯やパソコンを通してネット接続ができることが前提である。ネット以外でも、スーツを着れて、電車やバスで遠くまで移動できて、ということでないと、経済的プレイヤーとは決していえない。

 既に「地元」社会に経済的多様性はないのだから、個々人のパフォーマンスを存分に生かそうとすれば物理的に電子的に多くの距離を移動できなければならない。

 すると、当然コストは大きくなるのだから、それをどこで調達するのかという批判。

 もちろん、私は「給料」をセーフティーネットとして考えるのだから、「仕事」から当然調達することになる。自然にそれは「社会的末端の仕事をしている人に、ちゃんと人間として自立できるだけの給料を与えられるのか」という話ということになる。



 しかし、社会の末端の人間の給料が上がれば、当然のことながらインフレが起る。

 それは貨幣の流通量ということではなく、貧富の差というものが富めるものの「意識的豊かさ」、すなわち「俺はアイツらよりこれだけ金を持っているのだから、金持ちなのだ」という優越感になるのだから、その優越感を持ち越すために、金持ちがさらに儲けようとする。そういういたちごっこが起るがゆえに、インフレが起る。



 すると、結局はどこまで行っても、結局は同じことなのではないか。というのが、自己批判だ。

 金持ちである高度経済成長世代を批判しながら、結局は高度経済成長世代が若者に平等(個人的資質や努力に差などないのだから、平等に金が降りてくるのが当然)に金を与えてくれることを期待するしかない。そういう諦念が自分の記事に見えてしまっている。



 まぁ、だから少しでもそうしたことを相対化するために、こうやって高度経済成長世代批判をしているわけだけどね。