団塊テラキモスwwww

日記を2日も空けてしまい、すみません。(ちょっと前までは平気で一週間とか空けていたのは置いといて)



 いま、ちょっと力を入れていることがあって、それがうまくいってないので、ちょうどやりかけだった「幻想水滸伝5」を進めてました。その甲斐あって、ラスダンの直前まで来ましたよ。

 ちなみにやりかけだったのは、「パーティーを3組つくれ」とかいわれて「ル……ルカ戦か!!」と思って「キャラクター鍛えなきゃなー。しかも18人も……大変だなー」と、そのまま放置していたからです。

 ええ、幻水2をやった人なら、ああいう展開をされれば当然不安になるでしょう。まぁ、実際やったら普通のボス戦でしたけどね。で、「王子!!」グサッ「ナナミーーーーーーーー!!(違)」って……。いつでも○ボタンを押せるように構えていたのは私だけではあるまい。

 幻水シリーズは、ハッキリと過去のシリーズを踏襲していて楽しいですね。DQやFFが既に「プロダクト」としてしか、シリーズをやっていないのと対称をなしていて、大変好感が持てます。



 で、次やるのは、一ヶ月後だな。きっと。またパーティーが3組に別れるから育てないといけないし……。

はてなブックマークのこのサイトに関するコメントで、気になるものを発見した。



はてなブックマーク - 深夜のシマネコBlog: 問題は「金」という言葉が有するイメージ


2006年03月27日 fromdusktildawn 団塊の世代が若者だったときよりも、現在の若者の生活の方が、はるかに豊かなんですけど。高度経済成長は、マイナス100を0にするプロセス。現代の若者は、スタートが0で、それが1とか2とかにしかならないと嘆いている

 うんうん。

 確かにその通りですよね。「今の若者は恵まれている」のに、いったいなにが不満なんだと。おじさんたちはそういうことをよく言います。「我々の世代には、ケータイもコンビニもなかった。若者は贅沢だ」と。

 しかし、同時にこうも言います。「我々の子供の頃には、豊かな人間関係があった」と。まぁ3丁目のなんとかなんて映画が流行るのもそういうことですね。今は人間関係も崩壊し、おかしなことになっている。と。



 で、結局現在は豊かなんですか? そうではないんですか?

 私の答えは「豊かさなんて時代によって違うに決まっているじゃないか」ということです。



 1971年のヒット曲にジローズ「戦争を知らない子供たち」という歌がありました。ここで歌われている「戦争を知らない子供たち」はまさしく団塊の世代を指します。

 団塊の世代は戦争が終ってから生まれた世代ですから、戦争の最中に育った世代よりも「豊か」なハズです。団塊が仮に「マイナス100」とするなら、戦中世代は「マイナス10,000」ぐらいでしょうか。戦中世代からすれば、「団塊世代戦争を知らない子供たち」は非常に「豊か」な存在だったわけです。



 しかし、その「豊か」な団塊の世代が、若者に向けて「お前たちは豊かなのだ」と言った時に、それは同時に「我々の子供のころは豊かではなかった」ということを主張しています。それは戦中世代に人に対しての侮辱ではないでしょうか?

 また、「豊かな人間関係」とやらも、彼らが子供の頃に「豊か」だったのであれば、その豊かな人間関係を壊していったのは、まさに団塊の世代なのです。

 三浦展が『ファスト風土(以下略)』の中で、「交通網の整備のせいで、地方の人間関係が崩壊した」などという主旨の事を述べていますが、しかし、交通網の整備が日本の経済体勢を大きく下支えしたのは、紛れもない事実です。また、道路を走る自動車も、それが「いつかはクラウン」という言葉どおり、団塊世代のメンタリティーを支えたのと同時に、自動車産業自体も大幅な対外黒字を達成し、外貨を呼び込み日本を経済的に豊かにする、まさに「要」の存在でした。

 そうして、地方や人間関係を切り売りした結果、現在日本の「豊かさ」が存在するわけであって、その御恵を全身いっぱいに浴びながら「交通網の整備や、人間関係の崩壊は悪なのだ」などと言うのは、あまりに自分勝手な言いようだなと私は感じます。

 私はこのことをある意味で「南北問題に近いな」と思っています。既存の先進国とやらが、散々環境を破壊しまくって経済的発展を成し遂げたにもかかわらず、後進国に対しては「環境を破壊するな」などと言い、経済発展を阻害するのは先進国の勝手な言い分でしょう。

 高度経済成長からバブル地代まで、さまざまなものを破壊し、その見返りとして得てきた「豊かさの達成」の功罪を直視することなく、既にそういう破壊をできなくなっている若者に対して、ただ「最近の若者は」と切り捨てるのは、あまりに若者をバカにした主張ではないでしょうか。



 もう一つ、豊かさってのは「マイナス100」だとか、そんな単純な尺度じゃ図れないわけで、それを「豊かさ」として主張するのは、極めて卑怯なレトリックなのです。

 また、私がそのレトリックに付き合うとすれば、「じゃあ相対的に考えれは、団塊世代は「マイナス100から0」という「100」の達成感を得たにもかかわらず、若者は「0から1、2という、わずかな達成感しか得られてないではないか」と反論します。

 そもそも、豊かさの尺度などは相対的なものでしかないのです。年収1億の人間が年収1,000万になれば、「貧しくなった」と感じるでしょうし、年収150万の人間が年収1,000万になれば、それは当然「豊かになった」と感じるハズです。

 「豊かさとは相対的である」と考えれば、決して「ケータイやコンビニがあること」が現在の若者にとっては単なる「あたりまえ」でしかなく「豊かさの尺度」などでは無いということに気付くはずです。

 だいたい、団塊の世代だって「我々は戦中の世代に比べて豊かなのだ」などとは自覚していないでしょう。それを若者に「自覚しろ」などというのは、傲慢以外の何ものでもありません。

 ところで、最近よく聞く「2007年問題」って、すごい気持ち悪いね。団塊自画自賛