運転室に息子入れクビ…「厳しい」と抗議430件(Yahoo!News/読売)

 なんだね、この「家族」という構成単位に対する社会の甘さは。若者などに対する、異様なまでの厳しさと正反対だ。
 私はこの処分は極めて妥当なものだと思う。子供がドンドンドアを叩いて、開けて怒ったらその場に座り込んだのだと言うが、その座り込んだ事と全く同じ理由で運転室のレバーやボタンをいじりかねない。まさにその瞬間、運転手は乗客すべてを生命の危機に陥れたのだ。

 もっとも、今回書きたいことは、別に「厳しく責任を追及しろ! 甘やかすな!!」なんて話ではない。
 この事件は「東武鉄道」で起きた。東武といえば思い出すのは今年3月にあった、竹の塚での踏み切り事故である。今回の事態を知った幹部の頭の中にはこの事件が思い起こされたであろう。今回の厳格な処分も、そう考えれば十分に納得が行く。
 けれども、けれどもだ。それは本当に「乗客を守るための処分」なのか? 東武電鉄の威信や、幹部たちの社会的地位を脅かしたがための処分ではないのか?今回の事故はともかく、竹の塚の件に関して業務上過失致死を問われた警備員は、組織の論理に貶められた被害者だとしか思えない。そしてそのことが今回の処分にも繋がっているのだから、そういう意味でこの運転手にも同情の余地はある。

 少なくとも表層上は、解雇や減給といった各種処分は、本人が社会に対する責任を取るという意味合いでなされている。現実には上記で書いたような理由であるとしても。しかし、本当にその「責任」とやらは妥当なのか? もちろんそんなことはない。
 責任を取らされる必然性があるのは、やはり現場でさまざまな「ブレ」に対応しなければならない下っ端の職員であり、本社ビルでふんぞり返って予定されたスケジュールを淡々とこなしていればいいトップの人間は、そうそう責任を取らされる事故に合うことはない。
 もちろん能力がないがために、会社の利益を害した時には責任を取らされるが、彼らのような高給取りが会社を追われたところで、これからは今までの貯金を使って慎ましく生活すればいいだけの事である。ましてやこの手の事故が起きた時の減給処分なら「今年の海外旅行は中止するか」程度の意味合いしかない。その一方で、現場の薄給社員やアルバイトの人間は、食いぶちそのものを奪われ社会的生存の危機にすら瀕する。

 こうした、「責任の不平等」はどうして発生するのかといえば、私はこれを「被害者優位の罰則処理思想」にあるのではないかと考えている。つまり「罰」というものが加害者に対しての加罰ではなく、被害者関係者に対する癒しを目的としたものとなっている現状である。
 たとえば、何らかの事故で子供が死んでしまったとして、そのことを加害者に対する加罰で処理するなら、金持ちからは多額の賠償金(分かりやすく、金1つにまとめているが、実際は謝罪や加害者に対する加罰などの総体的な満足度の大小であることに注意)をとれるが、貧乏人からは大した金額をとることができない。これでは子供は殺され損だし、家族には不満がのこる。
 そこで、罰を被害者本位にすることによって、子供の生命の価値を(高値)固定化し、被害者不満の解決を先に計る。その結果、金持ちと貧乏人で罪に対する責任の重さに過大な偏りが発生する。

 その結果、何が起こるかといえば、現場の人間ができうるかぎり加害者になることを回避しようとするようになる。
 一瞬、「それは安全管理のためには良いのではないか」と思えるかも知れないが、それは決して安全基準の順守ではなく、責任からの逃避という姿になって表出する。要は、安全というものを構成員全体で確保していこうという理想的な姿とはほど遠い、各自が責任から逃避し、逃げ切れなかったひとり(えてしてそれは最下層の人間だ)にすべてを押しつけるという恥ずべき姿を表す。
 さらに言えば、本来守るべき安全基準だって、本社の人間による自己保身的な安全基準であって、それが現場で現実に実施できるものであるかという問題もある。竹の塚の事故では、安全基準の結果、全く人が通行できない踏み切りになってしまったからこそ、現場の警備員はその基準を破らざるをえなかった。

 最初の運転手の話に戻るが、この問題は決して「東武鉄道の処分が厳しいか否か」などという問題ではない。
 我々の過剰な安全志向が、現場の人間=弱い立場の人間に、過剰な罰を押しつけてしまうという、現在の社会システムそのものが有する問題である。

#なんか、「処分が厳しい!!」などと抗議をする人間に限って、同じ口で「少年犯罪の厳罰化を急げ!」とか「怪しい外国人はどんどん取り締まれ!」などと言っていそうな気がするんだよなぁ。