新潟は9年で14年。福岡は18年で10万円?

母が娘を18年“軟禁”義務教育受けさせず…福岡



 自分がこんな論旨で文章を書いている流れの中で、なんでこんな嫌な事件に遭遇しなければならないんだろうという感情を、この事件を知った時に感じました。

 まさしく、子供自身が親のエゴによってないがしろにされた事件です。子供は18年もの長きにわたり軟禁され、行政側も実態を把握していながら、何もできなかったといいます。

 このことに対し、マスコミはやたらと行政側ばかりを叩いています。やれ、もっと踏み込むべきだっただの、どうのこうの。



 しかし、私は昨今の児童犯罪に対するあまりにも先鋭化しすぎる世論を借りて、こういいます。「児童に対する犯罪は死刑にするべきだ」と。

 もちろん私自身は死刑制度に反対ですが、このくらい言わないと、被害少女の両親がしたことの罪の重さを、こうした事件を聞いておきながら理解できない人たちが、現実にいるのです。

 児童に対する殺人には死刑を叫ぶようなマスコミは、この件に対する両親の罪に対してはほとんど踏み込んだ発言をしないのだから呆れます。それから逃げようとする姿勢が、ムヤミな行政叩きにすりかわるのです。



 以前、新潟で9年間もの長きに渡り、女性が監禁されていたという事件がありました。

 このときは当然のように死刑を含めた最大級の刑を期待する世論が沸き上がりました。そして犯人には地裁で懲役14年の判決が下りました。(確定?)

 しかし、納得しなかった人も多いでしょう。人一人の人生を9年間も支配しておいて、たった14年という懲役では、彼女の時間は取り戻せないと。(……いや、私もこういう感覚は意味が分からないのですが、今回は犯罪者にむやみに厳しい、極刑論者の文言を借りています)

 ならば、18年間も少女の人生を奪いつづけたこの両親は、いかほどの罪に問われるべきでしょうか? 懲役年数の上限は無視するとして、少なくとも14年の倍の30年。監禁は長期に渡ればわたるほど、社会復帰が難しくなるのですから、それを加味すれば45年ぐらいはブタ箱に入ってもらわないと、割に合いません(だから今回は凶悪な極刑論者の(略))。死刑を肯定するなら、確実に死刑にすべき犯罪でしょう。

 けれどもこの事件に関しては、フラストレーションの発散としての行政批判(小泉改革を通して、公務員は「叩いていい」存在になったようだ)ばかりが行われ、実際の加害者である両親に対する批判は、ほとんどされずに終わるでしょう。



 それは、「子供の安全」などと、不安ベースを軸にしたスクールバスや集団登校などの管理監視をしながら、その実態は「子供の人権を守るため」ではく、「親の財産を守るため」という意識によるものであるがゆえです。

 「子供は親の所有物」であり、「所有物が無くなれば親が悲しむから」こそ、子供に対する犯罪は過剰に非難されるのであって、決して子供の人権を考えた非難ではないのです。

 こうした「親の感情ベース」の児童擁護は、親による児童虐待を肯定、もしくは黙認するものです。

 今回の事件も、こうした擁護の意識が、彼女の監禁を容認してしまったのです。私はこのような理由で児童が守られてしまう社会を強く批難します。