森達也の「悪役レスラーは笑う」が面白くて、つい一気に読んでしまった。他に読まなきゃいけない本がいっぱいあるのに。

 けれども、やはり昭和プロレスを知っている人間にとっては、たまらない本ですよ。

 もっとも、私が「昭和プロレスを知っている」と言っても、それはリアルではなくて、もっぱら判の小さい頃の「紙プロ」から得た知識ですね。リアルで(TVで)みていた記憶というのは、土曜午後4時からのワールドプロレスリングなので、本当に昭和プロレスを知っているわけではない。

 ただ、ヤラセやブック、アングルといったものを内包しながら、それでも勝負論を焚き付けるようなプロレス観は、それがタブーであった昭和も、既にブックの存在が明確な現在も、決して変わってはいないだろう。



 で、読んで思ったのは、「当時の社会は、暴力が生活の中にあったのだな」ということ。つまり、グレート小鹿が語るように、かつては仮想と現実の区別なんかロクに付いてなくて、悪役レスラーがエキサイトした観客に襲われるような事が日常茶飯事で会ったということ。もちろん小鹿の件はアメリカであって、日本では多少違うのだろうが、それでも「日本人である(実際には在日韓国人であったが、そのことはタブーとして伏せられていた)」元力士の力道山が、毛唐のシャープ兄弟をチョップでなぎ倒したカタルシスは、そこに密接に繋がっている。

 ある意味、ナショナリズムという大いなる幻想ためには、現実などは仮想でも真実でもどうでもよかったということだろう。だからこそ当時の日本人は、百人斬り報道やゼロ戦のすごい活躍っぷりに心を躍らせたというワケだ。(だから、百人斬りが嘘だろうが本当だろうが、我々がそれを喜んで受け入れたという事実は否定できない。戦時における、そうした人間の命の軽さこそ批判されるべきだろう)

 そうした「どうでもよさ」に抗うからこそ、森はこの本の中で執拗にグレート東郷というレスラーの「真実」を探ろうとするわけで、それはある意味、プロレスという「仮想の戦い」を、さも現実のように受け入れて愛好する「仮装と現実の区別もつかない」プロレスファンの姿勢とは、まったく相容れないように、見えるかもしれない。

 しかし、先にも書いたように、プロレスファンはプロレスが「ヤラセ」であることを知っている。知っていて、たとえば見事な受けであるとか、パフォーマンスであるとか、存在感とか説得力であるとかという、単純に勝ち負けとは別の所にプロレスラーの凄味を発見しようとする。

 そして、そうした凄味は、プロレスを単純な勝負と考えている時点では、まったく見えない。いわば、プロレスファンというものは、プロレスがヤラセであることを知ってからがスタートなのである。

 だから、「卑劣なジャップ」というアングルを背負ったレスラーのバックグラウンドを追う森の姿勢は、まさにプロレスファンの姿勢といえる。グレート東郷の真実の姿を知ることができたその時に、初めてプロレスファンによるグレート東郷の評価が始まるのだろう。



 #個人的には、帯の香山リカに萎えてしまうのだが、まぁナショナリズムとプロレスという題材だと、やっぱりこの人しかいないか……ちなみに、香山リカの名前を初めて見たのは、ファイプロ(たしかIIIのハズ)の攻略本の中。