「世に倦む日日」の哀れな教育観 おじいちゃん、もうやめて(笑)

 現代日本がなかなかうまくいかないのは、天に唾する不安ベース社会と経済不振(投機ブームなんて、パチンコブームと一緒や)にあるわけですが、世の中にはどうしてもそれを若者否定にしないと不満な方々がいっぱいいるようです。

 最近では左派を名乗る人すらもそうで、保坂展人までもが不安ベース社会を煽ったりと、「昔は良かった」が口癖の団塊おじいちゃんたちの機嫌取りに必死な状況になっています。社民は今だに自社連立をやってるつもりなんですかね?



 そんな中で「世に倦む日日」の「文藝春秋1月号の誌面から − 日本人の知性劣化と「呪術の園」」と題された文章では、まさに年寄りが若者を目の前にした時に、知性などあっけなく崩壊することが、明確に記されています。



 まず、パッと見て明確なツッコミ所はここですね。


日本人は勉強しなさすぎ、働かなさすぎの自己認識に至らない。二十年前の電車の中では、皆、必死にDOS入門とかEXCEL入門のマニュアル本と格闘していた。
 ゲラゲラゲラ。DOSExcelの入門本を読むことが「知性」って(爆笑)。



 DOS入門ってのは今に置き換えると「Windows入門」ですが、こんなもん電車の中で読んでいたら、ただのバカです。もう時代は移り変わって「Windowsぐらいは、使えて当然」なのです。

 Excelの場合はテクニカルな部分があるので、読んでてもおかしくは無いですが、それほど自慢することではありません。これもやっぱり使えて当然で、電車の中ではなく、自宅のパソコンでこっそり勉強する類のものです。

 また、当時は個人でパソコンを持っている人も少なく、DOSExcelに触れる機会が会社しか無い場合が多く、こうした入門書がビジネスバッグの中に入っててもおかしくはなかったし、会社のパソコンでお勉強もできたけど、現代の会社でパソコン使ってExcelの勉強なんかしていたら「そんなの家でやれ」と怒られるのがオチです。長年続いた不況で、人員が極端に削減された若い社員の立場では、実務に追われて、そんな初歩的な勉強をしているヒマはありません。

 20年前にこの程度のことを勉強と見なしていたのは、バブルの好景気で会社員全体がヒマだったからでしょう。

 しかも、経済が絶好調でしたから、この程度のことで給料がすぐに上がったという現実があったからでしょう。



 人間は社会の中に生きているのですから、人間は社会によって規定されます。

 資本主義社会においては、人は金を稼ぐために生きています。これは単純に「金になることはやるけど、金にならないことはやらない」ということです。名誉であるとか社会的承認であるとかは、これを補完するものとして働きます。

 そういうシステムである以上、社会が勉強することに金を払わない以上は当然勉強なんかする必然性がないのです。

 勉強しない若者を批判するんなら、勉強に対して金を出さない社会を批判するのが、当然のスジなのです。



 そしてもう一つ、重大なツッコミ所がここですね。

だから、私はブロガー同盟という運動をネットで提唱して推進しようとしているのだけれど、発起においては、それは単なる数集めの政治運動だけではなく、内実として、日本のこれ以上の知性劣化に歯止めをかけたいという文化運動の意味と目的もあった。日本人の大脳皮質を薄くしよう薄くしようと仕掛けてくる米国と政権と資本の側のメディア戦略に対して、それにプロテストして、二十年前、三十年前の日本人の知的水準を回復しようじゃないかという知性主義復興(ルネサンス)の側面もあった。
 さまざまな人から、そのスタンスを疑問視され、また内部においても各種のゴタゴタを抱えていた「改革ファシズムを止めるブロガー同盟」ですが、とうとう主犯みずから、そのねじくれ曲がったファシズム志向を暴露してしまいました。こんなんじゃ知性とかを気にしていない小泉政権の方が、よっぽど反ファシズム的じゃないか。



 そもそも、私は「ブロガー」という言葉に反発を感じてまして、だからこそこの運動に参加しなかった経緯があります。そして、実際発起人自体がこうした思想の持ち主であったことは、この「ブロガー」という言葉と無関係ではないと考えます。

 では、なぜこの同盟は「ブロガー同盟」であって「市民同盟」ではなかったのでしょうか?



 「ブロガー」という言葉は、単純には「Blogツールを使って、日記などを書いている人」という意味です。

 しかし、生きている言葉というのは、決して単純な意味に留まることなく、さまざまな付加的な意味をくっつけながら生きています。

 Blogに特徴的なのは、記事に直接付属する形になる「コメント欄」と、相互リンクを自動的に行う「トラックバック」で、この両者の存在が単なる「日記生成のためのツール」という域を越えて、高次のコミュニケーションツールとして機能しています。

 そう考えた時に「ブロガー」という言葉は、Webに日記を書いている人という意味から、「Web上で高次のコミュニケーションを取る人」という意味に変質していきます。

 するとこのときに「ブロガー」に対してなんらかを期待するというのは、「コミュニケーション」に対する期待なのです。

 先日書いた、Willcomファンサイトの件にしても、Willcom側は彼を「飲ませる」ことによって、何に期待しているかといえば、Willcomコミュニティーの維持、拡大です。

 他にも「自民党」「民主党」などの開いた懇談会も、要は高次なコミュニティーを用いた宣伝の意図です。

 つまり「ブロガー」という言葉には、常に宣伝の意図が透けて見えるのです。



 宣伝というのは、決して「意見交換」ではありません。宣伝は一方的に喧伝され、通達されるものです。

「改革ファシズムを止めるブロガー同盟」についても、決して共同体的な意図ではなく、「世に倦む日日」の思想の宣伝をしようと意図したからこその「ブロガー同盟」なのです。だから連帯を意味する「市民同盟」などの別の言葉ではなかったのです。



 念のため記しておきますが、私は「宣伝はいけない」とはまったく思っていません。

 ただ、それに賛同するにせよ批判するにせよ、そのことに対して自覚的であるべきです。

 なんとなくこうした宣伝活動になんとなく参加して、なんとなく「こんなことがあるよ」とブログに書いてしまうような無自覚さこそ、批判されるべきでしょう。

#次回予告

 「我々はニュースソースではない」の巻