『下流社会』と今年の戦略について

 ひとまず前書きと第1章を終えて、論理の骨子は明確になりました。

 あとは「このやり方がインチキ」「こうした解釈はデタラメ」と箇条書きみたいに切り取って行けば良いので、それほど難しくはありません。もっとも、難しくはなくとも、具体的に示すための文量は必要ですので、多少お待ちいただくことになるとは思いますが。



 さて、いままでお付き合いいただいて、『下流社会』を批判する私の文体に、不自然なところがあることにお気づきでしょうか。

 そうです。事あるごとに「三浦展」という著者名を書いているのです。



 今年の……というより、今後の私の戦略は「バカをピックアップしての各個撃破」です。

 なにか、アカデミックな文脈で社会を論じるとなると、どうしても総体論になってしまいます。けれどもそれでは現実にバカなことをしている人間は、それが自分のことを指していると気付かないのです。

 よくあるでしょ。店内禁煙のポスターの前で、タバコを吸っているとか、そういうのが。

 バカはバカであることに気付かないからバカなのであって、バカに相対論を持ち出して「そういうのはおかしい」とやんわりと諭しても、当の本人は「どこのバカだよwww」と気付きません。一生かかっても、絶対に気付きません。



 だから、総体論は同じような考えや知識レベルをもつ人間に対する提案にはなっても、バカには意味がないのです。我々(?)の失敗は、総体論や原理原則論をもって、既得権益にすがるクズや、ウヨのプロ奴隷たちを非難しようとしたことです。

 そうした論理で挑む限り、彼らは既得性や匿名性の中に隠れて、らちがあきません。



 そこで私が考えたのは、「既得権益者だけで、社会を成立させようとするのは、社会の萎縮、ひいては近代国家の体を破壊する」と、いった言論ではなく、「三浦展の言ってることは近代国家の体を破壊する」とする、各個撃破の言論です。

 そして「三浦展はこれこれこういうことを言っている。それは既得権益者だけで社会を成り立たせようとする、近代国家を否定する言論だ」として、全体的に「既得権益者だけで・・・」という議論を成立させるという方法です。



 禁煙ポスターの前でタバコを吸うバカのたとえで言えば、本人の目を見て「禁煙だ!」と完全に告知するわけです。

 もっとも、言論ですから、相手の言論=タバコを吸う権利は守らなければならないので、たとえいうことを聞かないとしても、タバコをたたき落とすことはできません。

 しかし、タバコを吸っている本人をぶん殴ることはできます。言論においては、それは全く罪ではありません。

 こうした具体的な暴力は、例え一人に行ったものであっても、その効果が波及し、その他の同等の考えをもつ人たちを萎縮させます。その暴力が凄まじいものであればあるほどです。



 「ペンは剣より強い」ということは、言論は剣より圧倒的な暴力装置として作用するという意味です。

 そうした暴力が違法でないことは、『下流社会』という本が十分に流通し、バカの方々の溜飲を下しているという事実から、理解できます。

 『下流社会』は、極めてソフトに貧乏人の頭をこづいて回ります。そしてやがてそれは貧乏人への自己責任の追求となり、人としての権利を奪い取ります。

 その危機に対して、我々はその真逆をするべきなのですが、既得権益者の頭をこづけば反撃を食らいますので、そうではなく、三浦展一人をターゲットに全ての暴力を突き返してやるという方法論を取るのです。



 今年の私はそんな感じです。