キチガイの誕生

 掲示板の件、あまりに厳しすぎると思います?

 私はそうは思いません。



 本当は私はもっとアレを罵倒してやりたかったですし、目の前にいれば、間違いなく張り倒している。そのくらいに怒りを覚えています。

 しかし、それを文章に記すという行為をするなかで、どうしてもマイルドになってしまいます。それは、怒っていることから一歩引いて、理論を打ちたてないとならないからです。怒りを論理性に変換するという作業は、非常にまどろっこしいものです。

 一方、あっちは論理性など気にせずに「お前は正しくない、相手が正しい」と暴力的に書けるので、大変有利です。



 私はいつも、こういう闘いで負けてきました。

 なぜなら、こちらが論理性で勝負をするかぎり、論理をまったく軽んじる人間には、それが全く通用しないからです。

 一方、物理的であるナシにかかわらず、暴力は一方的なモノですから、それを軽んじようが否定しようが通じます。



 そうした構造において、私に対して「あまりに厳しすぎる」と思うなら、あの行為が私に対する暴行であるということを直視していないからです。そういうのはレイプされた女性に対して「挑発的な格好をしていた」とか言うのと同じです。



 あのような人間は、もっと周囲から嫌われ、卑下され、罵倒され、打ちのめされるべきなのです。彼らによって私がそうされてきたように。

 本来、それは社会的なサンクションとして発露するべきなのですが、エセ平等観念が蔓延するこの社会では、そうした期待すら裏切られるのです。





 そもそも、アレ……アレというのも変な主語ですから、もうすこし明確な言葉を使って「キチガイ」と呼びましょう。

 なぜキチガイなのかは、私がまさにこのような連中を「キチガイ」と呼んできたからです。私はずーっとこうしたキチガイを駆逐するために戦ってきました。



 そもそも、キチガイは「エセ平等観念」にまみれた社会の中から発生するものです。

 キチガイの理屈はこうです。

 「人間は平等なのだから、どちらかがどちらかに対して、一方的に良い悪いということはない」

 しかし、この論理は「行為の本質」というものを完全に無視しています。片や一方的に暴力を振るった加害者と、片や一方的に暴力を振るわれた被害者が「一方的に良い悪いということはない」などというジャッジをされれば、それは加害者の一方的な勝利に終るのです。なぜなら、既に加害行為はなされているからです。

 そして結局は被害者に対して「水に流せ」とか「犬にでも噛まれたと思ってガマンしろ」などと諭すだけの、被害者にとっては極めて屈辱的な結論に終るのです。



 しかし、それは被害者に対しての更なる加害行為でしかないのです。

 真の平等は、被害者の側に立ち、被害者の名誉回復を目指して動くことでしかあり得ません。

 そういうことが分からない人間が、「貧乏人も、金持ち権力者も皆平等」などという、ふざけたネオコン思想に走るのです。



 だから、私はそういうキチガイと、ずーっと戦い続けているのです。

 私の思想の原点は、キチガイとの戦いにあるのです。