今日はちょっと疲れたので「問題は「金」という言葉が有するイメージ」の続きは明日にしますが、

 とりあえず私が「なにを批難して、なにを批難していないのか」ということを、前回の文章から読み取って欲しいのですよ。

 それはリベラリストとしての自分の根幹たる考え方、つまり「平等であろう」とするうえで、避けられない「批難と擁護」なんですよ。

 そして、そういうものだからこそ、あの文章は「左翼批判」にしかならないのです。右翼はそもそもそういう考え方をしないわけだから。

 ところが、そういう考え方をしないほうの右翼側で、若者を平等に扱うかのように見える事態が起ってしまっている。左翼はそのことに気付きもしない。そういうことを批難しているわけです。



 詳しくはまた明日。俺はもう疲れたし眠いし。