「知性下流社会」シリーズ その11第5章「自分らしさを求めるのは「下流」である?」

 今まで「嫌下流社会」と「知性下流社会」の2つが混在していましたが、今後は「知性下流社会」に統一することにします。

 理由としては、議論を決して「反下流社会」に限定することなく、日本人の知性低下に広く言及することを目的とするためです。その1つとして、この三浦展批判があります。



 ここから本題。

 この第5章では、「自分らしさを求める人間ほど、下流意識に苛まれている」ということを三浦展は主張している。

 しかし、我々は既に「上中下」という概念が、あくまでも当事者の自由なイメージのそれでしかないことを理解しているので、ここで示される図表を素直に下流化などとは見ない。



 三浦展は、集計の結果から「自分らしさ=下流への道」という構図を見いだしているが、これは明らかに「現時点で自分が「下」だと思っている人のほうが、「自分らしさを大切にしたいと思っている」」ということに過ぎない。

 「自分らしさを大切にしたいと思っている」というのはどういうことかといえば、現状において自分らしさが大切にされていないからこそ、もっと自分らしさを大切にしたいと考えているということだ。そういう人が「下」に多いと考えられる。

 逆に「上」と考える人は、既に自分らしさを達成しているからこそ、自分らしさを大切にするという意識がないと考えられる。

 結局、少なくとも「自分らしさを大切にすれば下、大切にしなければ上」などという、一方通行の関係性は成り立たないし、そもそも「自分らしさ」の指し示すイメージは個人によって待ったく違う物なので、統計的になんら意味があるとは考えられない。

 ましてや、「自分らしさを達成するためにフリーターになる」など、あまりに団塊ジュニア世代が味わった就職市場の異様な厳しさを完全に無視した妄言でしかない。

(「金」のイメージとともに、「自分らしさ」という言葉のイメージも追加するべきか?)



 ……この章の批判はこれですべてなのだが、三浦展の指し示す図表のいい加減さを明示しておきたい。

(以下は次回に)