堀江は少なくともネオコンよりは正しかった



武田さんの文章で知ったのだが、「世の中、カネで買えないものなんてない」という、マスコミがこぞって堀江をカネの亡者である象徴として扱った、あの有名な台詞には、本当はこんな意味があった。

日経BPネットビジネスTODAYより


プロ野球新規参入問題の渦中で、巨人軍前オーナーの渡辺恒雄は言った。「オレも知らないような人が入るわけにはいかんだろう。カネさえあればいいってもんじゃない」。



旧勢力に君臨する男のコメントだ。しかし、堀江はこう反撃した。「世の中にカネで買えないものなんて、あるわけない」。身も蓋もない発言だ。彼は「唯金論者」なのか。それとも守銭奴



彼の言わんとするところはこうだ。



「カネで買えないものは、差別につながる。血筋、家柄、毛並み。世界で唯一、カネだけが無色透明で、フェアな基準ではないか」

 私は、「このころの堀江」という人物をずいぶんみくびっていたようだ。

 これが本心なのか、インタビューに対応したパフォーマンスなのかは知らないが、どちらにしてもカネというものが持つ「リアル」を的確を指し示している。私が当時にこの発言を知っていれば、多少は堀江の事を応援する気にもなったのかもしれない。

 そして、この真意を知ってなお、堀江を「拝金主義」とバッシングするなら、それはまさしく「差別主義者」の発言となる。



 私はちょっと前に「カネは権力のオルタナティブだ」と書いた。

 ただし、決してカネと権力は正反対の存在ではない。むしろ権力に寄り添おう々とするのがカネの常である。だからこそ、カネを権力のオルタナティブとして十分に調整して流通させなければならない。と考えるのが私の立場だ。



 佐藤俊樹「不平等社会日本」のなかで、既に団塊の前の世代で、職業の開放性、すなわち、ホワイトカラーの上級職と、その他の交換可能性は既に消失していたを証明している。

 それでも、高度経済成長とバブルの時代には、少なくとも「給料」はアップしつづけていた。

 そうした「右肩上がりの給料」の存在は、「齢を重ねる=給料が上がる=努力」という都合のいい前提を満足させていた。

 しかし、経済成長が止まった現在、並大抵の努力では給料が上がらなくなった。上記の前提の元に動いていた社会は、その前提を保持し続けたために「齢を重ねる(しかし)給料が上がらない(なぜなら)努力をしていないからだ」という捻じれた社会認識を生み出した。これが昨今の若者差別の大前提である。



 そして、それは堀江も同じだった。唯一彼が他と違ったのは、自分を「給料の上がらない無努力なもの」と自虐するのではなく、給料を上げるための努力をし続けたことだ。そして、件の問題もその延長上にある。

 「努力」という言葉は、事の正悪を問わないハズだ。「給料を上げる」事が最終目標なら、そのための手段を問おうが問わなかろうが、それは「努力」である。少なくとも私は彼の努力を認めてあげたい。



 しかし、それはいかにも時代遅れの「努力」なのだ。

 与党のネオコン政治家や、経団連のクズどもがしているのと同じ、時代遅れの努力なのだ。

 「右肩上がりの経済」という最重要前提が崩壊した以上、「給料が上がる=努力をしたと認められること」という努力観は時代遅れなのだ。



 我々はこれからの低成長時代に合致した「努力を認めること」。すなわち、「人を人として認めることの新しい基準」を考えなければならない。

 堀江の件で考えるべき問題は、それなのであって、決して堀江を卑下して現行権力の最大肯定することなどではない。



 ついでにいうと、私の「カネをオルタナティブとして考える」というのも、いささか時代遅れの考え方かもしれないということは自覚している。

 ただし、現状との擦り合わせを考えれば、どうしてもここを避けて通ることはできないし、そのことについて自覚的でなければならないと考えている。