児童虐待を本当に根絶するために。

 以前、私もネタ的に取り上げた「このバナー広告」

 このバナー広告に対する見事な批判をしているサイトがあった。

 なるほど、病気でアザができやすい体質というのがあるのか。



 そもそも広告というのは、物事を一方向からだけシンボリックに伝える側面があり、だからこそ作成には慎重である必要がある。

 このバナー広告の場合は、アザをフューチャーしているし、またこのような痕跡は虐待の証拠として採用しやすい。さりとて、このような病気の事例もあるのであって、虐待を断定することはできない。

 また、肉体的な虐待だけではなく、精神的な虐待というのもあるだろう。

 先日、例の奈良県小林薫の事件が1周年ということで、特集が組まれていたが、あの地区では今だに親が付き添いで集団登校しているのだという。確かに親の心配を解消するためには必要なのだろうが、子供にとってはどうなのだろうか?

 殺人という、極めて特殊で確率の低い危機のために、自身の自由が親の管理下に置かれることに対して、子供は納得しているのだろうか?

 私には子供に対する過剰な危機意識というものが、子供に対する精神的虐待(管理監視)を容認しているように見える。



 虐待の本質を考えた場合、それは親が親であるがゆえに自然に持ってしまう強権。その強権をむやみに行使することが虐待といえる。また、親というタームもカッコに入れてしまえば、強者の論理こそが虐待を生み出すと言える。

 その点で、このバナー広告は、マスメディアの強権を自覚無しに振りかざしているのであり、このサイト主のような人たちに対する虐待を行っているともいえる。



 だが、やはり「ならばどのように虐待を防ぐのか」ということになると、アザなどの身体的外傷を目安にするしかないというのが、はがゆいところ。

 たとえば、上記サイトの内容の多くは納得できるし、同感なのだが、唯一「虐待を受けている子どもが、こういうふうに穏やかにニコニコしている、つうのか。」という部分だけは違うと思う。虐待を受ける子供を表情で判別するのは不可能である。子供は自身が虐待にさらされていても、それを伝える術を知らないし、表情などいくらでもつくる事ができる。だからこそ、身体的外傷が重要な目安とされる。だが、目安は目安であって、実質ではないという堂々巡り。

 結局、もっとも根本的な解決法は、子供の人権を明確なものとし、子供が虐待を受けていれば、親を訴えても当然というコンセンサスと、それを行った場合の生活保証を行うことであって、決して近所の人間に対する親の監視の要請だけでは解決できないし、今回とりあげたような偏見を伴ってしまう。



 けれども現在の日本はそれとは全く逆方向、社会は親に子供の管理責任を重く負担させ、親は子供への監視を強める方向に進んでいる。

 これではいつまでたっても、虐待は無くならない。