現実に晒される「萌え」オタクたち

 「目に映る21世紀」さんのところ経由で、いわゆる「秋葉原DQNがやってきて、傍若無人な行動を繰り返している」という問題意識を感じました。



 私は正直言うと、「森川嘉一郎」的な秋葉原理解が、とても気にいらないのです。

 秋葉原を「おたくという人格をベースに発展した街」という箱庭的なものとして理解するのは、さも秋葉原という街だけが、他の街と違った「固有のアウラ」を持ち合わせているような、酷く杜撰な理解のように思うのです。

 秋葉原はけっしてオタクの人格ではなく、他の街と同じように、資本主義という合理性の下に変容してきた街だというのが、私の理解です。

 他の街と違うのは、秋葉原において店舗がさかんに移動するような、極めてフレキシブルな店舗の変化があるということです。それは多分、不動産形態による特有性でしょうから、そのうちに秋葉原の土地の権利や店舗契約などが、他の街とどのように違うのかを調べることによって、理解できるような気がします。

 そうしたフレキシブルさ故に、その時その時で「一番稼げる」店舗形態が街に一気に広がるというのが秋葉原の本当の事でしょう。

 そういう意味で、現状の「萌え世界」のオタクの人格など、資本主義によって積み上げられた、産業界(そして、同人作家)にとって都合のいい人格でしかありません。

 その点で、当人の創作性を軸とした、かつての「アニパロ」を代表とする世界のオタクと、現在の「商品消費型」のオタクでは、その意味あいが極めて異なっています。森川的理解は、その辺が理想的な姿に偽装され過ぎてる感があります。



 かつての秋葉原は「電気街」でした。今もそうですが、森川嘉一郎的な秋葉原理解は、秋葉原を「萌えの街」にしてしまいました。パソコンまでを含めた「電気」は、街の一部となってしまい、総体としては「萌え」が電気を覆う形になっています。

 そしてこのこと自体が、秋葉原に固有のアウラなどなく、ただ資本主義的都合による街の変化の中で秋葉原という都市のイメージが変容していくという事実を示しています。

 結局、「萌え」は秋葉原にとっては、単なる「ニューカマー」です。そして、常に秋葉原ではニューカマーの勢いが強い。それだけの話です。



 ……ぜいぜい、やっと本題に入れる。

 「目に映る21世紀」さんからリンクが張られている、「アキバBlog」さんが最近の秋葉原の居心地の悪さを指摘していますが、それは今までだって旧来のオタクが、ニューカマーのオタクを見て思ってきた雑感に過ぎません。

 ゆうきまさみが単行本「ぱろでぃわぁるど」に掲載されている「ファンダム大地に堕つ!!」と題された作品では、そうした旧来のアニメとアイデンティティーが密接に繋がり、作品などの厳密な解釈論などを通して通じ合うオタクが、ガンダム以降のキャラクターの自由な解釈から、同人誌やコスプレなどをして、アイデンティティーと別のところでアニメを利用し楽しむオタクを同人誌即売会で見て、頭を抱える様子が描かれています。

 そして、かつて旧来のオタクを悩ませた、既存のアニメを利用して楽しんできた新しいオタクたちは今、自分たちの「萌え」のためにキャラクターを記号的に乱造する「萌え系」のオタクに対して頭を抱えているのです。

 これだけ書くと、このことがオタクアイデンティティーの系譜であって、一般人が土足で秋葉原に踏み込むような事態とは違うのではないかと思うのかもしれません。

 しかし、たとえば「ガンプラオタ」というのは、オタクのアイデンティティーとは全く違った一般人との繋がりが強い人たちですし、エロタワーだとかそういうのだって、別にオタクをターゲットにしているわけではありません。

 また、そもそも電気街である秋葉原において、古くからの電子工作系の人はオタクの進出に対して頭を抱えている部分も少なくはないでしょう。

 さらには、昭和通り沿いはビジネス&風俗街ですし、「秋葉原が常に(今日び的理解の)オタクの聖地であった」などというのは、オタクの勝手な幻想に過ぎません。



 結局のところ、こうした現実的な経緯を無視して、自分たちにとって都合のいい解釈を繰り返して、さも自分たちの街が害されているような社会理解は、いわゆる「ウヨク的」な社会理解そのものです。

 けれども我々は社会の中で生きているのですから、そのような幻想は現実によって覆いつくされるのです。その時にその現実を受け入れるのか、過剰に反発して反社会的な存在になるのか。

 このようなウヨク達が今後ブチ当たるであろう問題が、この「秋葉原DQNがやってくる」という問題意識に表われつつあるように、私には見えました。