hotsumaのURLメモ。より 「禁煙ファシズム」論争。

 また小谷野か(笑)



 喫煙側の勘違いというのは、タバコが非難されているのは、決して受動喫煙がどうたらとか、医療費がどうたらとか、そういうことではないんですよ。

 一言で言えば、「喫煙厨はうざい」のであって、決して批判は論理的な文脈をなしているわけではない。ひょっとすると斎藤貴男はちゃんと分かって書いているかもしれないけど。

 じゃあ、喫煙派は論理的な文脈をもって、特に受動喫煙の害などがほとんどなく、医療費に関しては「不健康の自由」を主張。さらにはタバコのマナーを向上させれば、タバコを受け入れられるのかと言えば、そんなことはない。

 すでに「喫煙は自由である」などという主張は、社会の空気によって通らなくなっている。その点で「禁煙ファシズム」という単語には同意する。

 けれども、じゃあ自分が「禁煙ファシズムを阻止せよ」という立場に立てるかというと、これは立てないんですよ。

 なぜ立てないかと言えば、つまり「タバコを吸うような、偉そうにしている連中が、立場を失って右往左往している様を見るのは楽しい」からなんですね。つまり、今私がメインコンテンツで書いているような理由で、禁煙ファシズムを非難する立場は理解するけれども、賛同はできないのです。



 タバコというのは、大人や社会的立場をを象徴するアイコンとして、今まで用いられていました。仕事の後や途中での一服は「仕事をやり遂げた充足感」と共にありました。だからタバコは非常に社会権威的な象徴として、たとえば女性がタバコを吸う構図は、男女平等のシンボルとして扱われてきたわけです。

 けれども、タバコを吸って充足感を得ていたとしていた大人たちは、別にまともに仕事をしてきたというわけではない事が、最近になって明確になってきました。日本に借金を残し、バブルを崩壊させて社会に多大な損失を与えてきた大人たちは、みんなタバコを吸っていたのです。

 つまり、タバコは責任ある仕事のできる大人のシンボルから、日本を崩壊させて責任を取らない無責任さのシンボルへと一気に転落したのです。

 タバコを翼賛する層の厚顔無恥さが垣間見えるようになったからこそ、タバコは批判の矢面に晒されるようになったのです。

 我々が喫煙者を非難するのは、決して健康問題やマナーの問題だけではないのです。タバコを吸うという、その虚勢がムカツクのです。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ってヤツです。

 最低限これを理解していないと、反禁煙運動はいつまでたっても「今さらタバコを吸い続けるバカのオナニー」としか、理解されないでしょう。