崎山伸夫のBlog より、「子どもを誰でも簡単に追跡できるWifi ICタグ実験」

 ITがITたる由縁は、各種の技術を大変経済的に実現できることにある。

 汎用的な部品を汎用的な技術を用いて汎用的なシステムを構築する。独自では酷くコストがかさむシステムの個々をオブジェクト化、すなわち今回のような実験でいえば、ICタグ技術が汎用的な技術で、保護者が見る携帯やパソコンは専用のものを利用するのではないのだから、汎用的だ。中間の基地局も、そこに組み込まれる技術は当然汎用的というように、汎用的な機械を独自のシステムで繋ぐことによって、安価に目的を実現することができる。

 しかし、汎用的であるということは、そのシステムが誰にでも利用されうるという脆弱性を持ち合わせている。

 保護者から見れば「子供の居場所が特定できて安心」なシステムも、別の視点から見れば「個体を識別できる魚群探知機」になりうる。



 しかし、子供をこのような危険に晒してまで得られる「安心」とはなんだろうか?

 いや、「安“心”」と書いておいて、なんだろうか? もなにもないのだが……

 不安ベース社会で求められるものは、安全ではなくて安心だ。安心が本当に安全ならいいのだが、「安心だから安全だ」などという事にはならない。安心と安全は独立した要素として見るべきで、決して混同してはならない。「安心で安全」「安心だが安全ではない」「安心ではないが安全」「安心でなく安全でもない」の4つのマトリックスを慎重に見極める必要がある。

 さらには、ある立番の安心安全が、別の立場の安心安全を保障するということにはならない。白人の世界から黒人をはじき出せば白人は安全だろうが、黒人は危機に瀕する。我々は社会におけるマジョリティーが求める安心を達成するために、マイノリティーの安全を危機に晒すことに自覚的でなければならない。

 今回の場合はまさに「親の安心のために、子供の安全が危機にさらされている」。

 子供のプライバシーを暴露して得られる「安心」とはなんであるのか、このことは子供たちが本当に安全な社会で暮すことができるために、何千回でも問い直さなければならない。



 #半年で25人の子供が、虐待により殺されている現状(taknews.net-blog より)を考えると、監視すべきは「親」であり、子供のいる家庭の全ての部屋に監視カメラを設置する必要があるかもしれない。(半分冗談、半分本気)