田中正造のように

 出先で下野新聞を見ていたら、一面にとんでもないコラムを見つけた。

 その内容は、田中正造の名前を出して、「田中正造はこんなに努力をしたのに、ニートと言われる連中は、なぜ全く努力をしないのか。」と、若者を罵倒するものであった。



 田中正造は、足尾銅山から出る煙害と、渡良瀬川に流される鉱毒による害に生活をボロボロにされた人たちのために私財を投げ打って活動し、ついには死刑を覚悟で天皇に直訴を試みた人物として知られている。(この時の直訴文を起草したのが「幸徳秋水」だというのは、QMA知識)



 田中正造は、なすすべない人々の生活を改善するために、果敢に政治活動を行った。そのことをちゃんと考えれば、このコラムにおける「鉱毒をたれ流す銅山」と「なすすべなく苦悩する庶民」と「田中正造」の関係性が、あまりにも暴力的に改竄されていることに気がつく。

 ここまで書けば分かるとおり、今の若者の現状を足尾鉱山事件になぞらえれば、「なすすべなく苦悩する庶民」こそ、下野新聞のコラムを書いた人間が批判するニート、すなわち若者である。

 卒業した年の経済状況で、人生が左右されるような不平等極まりない就職環境の中、運悪く納得の行く職業につけずに、フリーターになったり、会社組織自体に入る事を諦めたニートたち。それは団塊の世代などのに過剰に配慮し、「団塊の世代の言う社会」の利益を最優先した労働市場の有り様、すなわち労働力の買い叩きをいつまでたっても是正しない、国による人災である。

 そうした若者たちから、社会利益のために搾取を行い、あまつさえこれでもかこれでもかと卑下する「鉱毒」。それはまさに今回のコラムのような言論、まさに「言毒」だ。

 ならば、田中正造は、そのような就職システムを厳しく批難し、その解体を目指す人物だろう。

 ニートという差別言論をたれ流し、不平等社会の上層で甘い汁をすすり続けるこのコラムを書いた人物に、田中正造を理想化する資格はない。



 私は、「頑張った人」などという道徳的理解ではなく、現実に鉱毒のたれ流しを批難し、改善のために努力を続けた、地道な「活動家」としての田中正造を支持する。

 地方新聞というメディア権力者によって、その名前をいいように利用されるのでは、庶民のために苦労を続けてきた田中正造が報われない。