R.D.レインの『結ぼれ』の中に、こういう文章がある。
わたしの欲しいものときたら、手に入ったためしがない。
手に入ったのは、いつだって、欲しくないものだった。
欲しいものは
わたしの手には入らないだろう。
だから、それを手に入れるには
わたしは欲しがってはならない。
なにしろ、手に入るのはわたしの欲しくないものだから。
わたしの欲しいものは、手に入れることができない
手に入るものは、欲しくない。
これを呼んで私は「ああ、自分のことだな」と思うのです。
これまでずーっと、「欲しいものが手に入らず、欲しくないと思ったものばかり押しつけられる」人生を歩んできた私にとって、「欲しいものを欲しがる素振りを見せなくする」のは必然でした。
欲しいものは手に入らないから、欲しくないものを欲しいフリをする。
そして私はニセモノばかりを自ら望んで欲するようになったのです。
欲しくないものを欲すれば、欲しくないものを手に入れずにすむ。
けれども、結局はニセモノばかりが手に入り、欲しいものは一向に手に入らないのでした。
なので、時折私は欲しいものを欲しました。
欲しくないものを欲したら、欲しくないものが手に入った。欲しいものを欲すれば、欲しいものが手に入るはず。
しかし、欲しいものを欲した結果、いつだって私自身が傷つく結果に終ったのです。
だから、欲しいものを欲しがるのを辞め、ニセモノを欲しいものだと思いこむことにしました。
親にCDラジカセを買ってもらった時、機能の多い高いモデルではなく、機能の少ない安いモデルを欲しがったことを記憶しています。
欲しいものが手に入らないから、手に入るニセモノを欲しいものと思いこむことにした。
すると、欲しいと思いこんだニセモノすら手に入らなくなりました。
わたしの欲しいものときたら、手に入ったためしがない。
そしてわたしは欲しいという感情自体を表に出すことをやめました。
そしてわたしは何も手に入れることができなくなったのです。
わたしは何もいらない わたしは何も欲しくない
けれども本当のわたしはいろんなものが欲しかったのです。
そして時々思い出したように欲求を出しては、それに傷つけられることがすべてだったのです。
そしてこうして30年の月日が流れました。
わたしはトップページに「欲しいもの」を書きました。
そしてまたしても傷つくことになるのでしょうか?
今読み直すと、ちょっとだけウソが書かれています。
やっぱり三浦展のように本をたくさん売りたいし、
人並み以上の生活をしたいのです。
条件は自分の名前が出るだけですが、本当はそれに加えて紙媒体のほうがいいです。本というマテリアルに収束せずに達成感を何ら得られないWebはもうウンザリです。
でも、こうしてちょっとだけウソを付け加えないと、また傷つけられやしないかと不安なのです。