赤頭巾ちゃん気をつけて 庄司薫

赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)

 とりあえず「教養小説といえば?」と考えて、真っ先に頭の中に思い浮かんだのがこのタイトル。
 モノをしらない2ちゃんねらーなら「それなんてエロゲ?」とでもいうのだろうが、これはれっきとした教養小説である。タイトルだけで偏見を持ってはいけない。

 舞台は学園闘争の嵐吹き荒れる時代の日比谷高校。
 今、日比谷高校と言っても、特になにかあるわけではない普通の公立高校だが、その当時は毎年200名近い東大進学者排出していたエリート高校である。
 そんな「悪名高き」日比谷高校に通う「庄司薫くん」は、女中さんがいるような家のいいところのおぼっちゃん。東大法学部に入ろうと準備していたものの、学園闘争の影響で入学試験の中止が決定。さらに十年ぶりの風邪をひき、なじみの万年筆は落とし、さらに12年買い続けた犬が死に、左足親指の生爪をはがしてしまうという、不幸のどん底にいる。
 物語はそんな不幸な薫くんが、幼なじみの、ふくらみかけのおっぱいを見せつけられたというエピソードをもつ女の子と、友達以上、でも恋人とはとても言えないような、なんとなくぎくしゃくした関係を露呈しながら、親指の治療にった先の医院では兄の元恋人と再会し、白衣にノーブラという格好で大変分かりやすく誘惑されて、それに全く反応できなかった自分の不甲斐なさと、ゴーゴークラブなどで好き放題やっている友達を比べて童貞を余計にこじらせてみたり、足の痛さをおしてわざわざ銀座に出かけ、そこで幼女に出会って一緒に本屋に行って「赤頭巾ちゃん」の絵本を買ってあげて、「僕は海のような男になろう」とか悟りだす、見事な教養小説………………これなんてエロゲ

 いやいや、上記の粗筋は近所のPTA的な奥さんに捕まって今後の進路をあいまいなまま告白させられたり、芸術派の総裁みたいな悪友が、自らの今後を諦念とともに自白したり、その他の部分ではずーっと薫君自身が「自分」ということを考えているという描写をわざと外しておいて、エロゲ呼ばわりも卑怯なのだが、それでも「教養小説」といういかにもな重苦しげなジャンル名から想像される内容ではない。

 この本が発表された当時、日比谷高校の中で「庄司薫探し」が流行ったそうだ。当初、この本は「私小説」であると思われていた。
 しかし、当の本人、庄司薫という筆名をもつ「福田章二」は10年も前にとっくに日比谷高校を卒業、当然のように東大に入り、政治学科を卒業している。すなわち『赤頭巾ちゃん』に出てくる「下の兄貴」あたりが年齢は違えども当の福田の立ち位置であり、作中で兄貴と薫くんが一緒のときに偶然出会った「すごい思想史の講義をしている教授」とされる人物のモデルは、福田の法学部時代の恩師、丸山眞男である。
 閑話休題
 そして日比谷高校で話題になったこの本は、第61回の芥川賞を受賞している。

 結局、これを読んで私が思ったのは、すなわち「教養小説」の教養たる部分は、結局は東大周辺の一部エリート層による既得権の保持を前提とした、内輪ウケでしかないということだ。
 生まれた時から幸福が約束されている層の人間たちが、こうした本を読んで人生に悩んだということにしてしまう。そして人生に悩んだということにした人たちは、自らが得る幸福を「悩み→幸福」という成功体験に置き換える。

 ただし、こうした道具としてこの本が存在しているということに、著者の庄司薫……庄司薫だと作中の薫くんと著者の区別が付きにくいので、ここでは著者を福田章二で統一するが、この本が必然的に「ぬるま湯の中の免罪符」となるであろうことに対して、著者の福田が盲目だったとは思えない。
 本書に描かれる「薫君の不幸」など、ハッキリいって不幸でもなんでもない。足の親指の爪をはがしたぐらいのことが不幸として描かれることは、むしろ彼らのぬるま湯のような幸福と欺瞞を暴きたてているとは言えないか?
 また、描かれる薫くん以外の勉学と遊興を無理矢理成立させる日比谷高校生の奔放さと、その一方で東大進学者数が(多分、当時既に勉学一本槍であったであろう)灘高校に抜かれてしまったという部分は、日比谷高校生のありようを批判することになっているのではないか。
 また、武田さんによると、当時闘争の中で睨まれがちな立場であった中央公論社の社長中央公論の編集長(06/09/29訂正)と福田が知り合いであって、そうした学生たちの憤懣の矛先を逸らすために、この本を「あえて書いた」というエピソードもあるそうで*1、そうなると、この本のスタンスというものを単純に「教養」と考えることには、躊躇せざるをえない。

 文章自体は決して深くはない文体であり、それはさながらライトノベルを彷彿とさせるものだが、「メディアミックスで関連グッズを大量に売る」という最終目標が明確であるライトノベルと比べて、本の存在そのものが社会的な各種題材を内包しているという本書の立ち位置は、極めて複雑かつ雑多であり興味は尽きない。