双頭の悪魔 有栖川有栖

双頭の悪魔 (黄金の13)

 困った。
 私はいままでほとんど推理小説というのを読んだことがない。
 だから、ストーリーやそのつじつまの良し悪しを判断する能力がない。
 そして、推理小説の書評というのは、そういう点でのみ行なうべきであって、現代社会に対する何か批評だったものを書評の材料にすることはできない。
 というわけで、私はこの本を書評できないハズなのである。

 でも、なんとか書評をしなければならない。
 ただ登場人物やストーリーのさわりを紹介するようなピア的な宣伝文句ではなくて、書評を……。
 困った。

 じゃあねぇ、私が読者の推理を要求される場面で、どんな感じに推理をして、その結果をどう感じたかを書いてみよう。

 まず分かったのは、人々がアリバイ等を話している場面については、しっかりとメモ帳を用意して書いたりしながら読み進めなければならないのだなということ。
 TVゲームなどについては、オートマッピングがついたり、マルチエンディングに至るためのルートマッピングは、もはや欠かせない機能となっているが、本には当然のようにそうした機能がないのだから、ちゃんとメモをしなければならない。
 「何を当たり前のことを」と思うだろうが、じゃあ今さらあなたの大好きなアーティストがアナログレコードでしか新アルバムを発表しないとなった時に、あなたはどう思うだろうか?
 CDがまだ「レコードと別の規格の盤」でしかなかった時代には、あなたは少々の不便を感じつつも、レコードプレーヤーとコンポを繋いで、そのレコードを聞いただろう。
 しかし、時代はi-Podを始めとする、MP3プレイヤーの時代である。
 CDならば、パソコンに読み込ませるだけで簡単にMP3ファイルを生成し、そこにi-Podを繋ぐだけで簡単にその音楽を外で聴くことができる。
 しかし、アナログレコードをMP3にするのは、決して容易ではない。できないことはないが、かなり面倒くさいし、そのための器材も入手しなければならない。
 と、今さら本を読みながらメモをして犯人を暴かなければならない推理小説は、極めて「面倒くさい」娯楽であると言えると、私は思う。

 ここからネタバレ配慮ナシなので「続きを読む」扱い。
 そんな状態でメモもせずに読み進めたものだから、作者の挑戦に私はほとんど対応することができなかった。
 ただし、状況的な部分の推論、すなわち江神さんの言う「アリアドネの糸」と、最終的な推理での「交換殺人」はズバリ推測することができた。逆に言えばせいぜいそんなものだった。
 ただし、全体を通して思ったのは、殺人の動機にしても、その方法にしても、奇抜と言うほどのものはなかったので、ちゃんとメモさえしていけば、犯人にたどりつくことは決して難しくはないと感じられた。
 そうした意味で、この小説は確実に「娯楽小説」である。

 娯楽小説である推理小説は、「作者 VS 読者」ではなく、極力読者が勝つようなバランスを取らなければならない。
 それは決して優しい事ではない。ただ優しければ読者はカタルシスを得られないのだから、ほどよく難しく、ただし解決のために読者を誘導しなければならない。それは並大抵の技術ではないはずだ。
 そんなことを考えつつ、私が思い出したのは、昔のナムコのゲームだ。
 昔のナムコ(今のは知らない)のゲームは、最初に非常に難しく思えながらも、やがてプレイになれてくると、それをちゃんとクリアできるようになる。そういうバランス感覚に非常に優れていた。
 80年代後半から90年代前半にかけて、ゲームの主役がアーケードからファミコンに移っていったワケだが(その後ストリートファイター2のブーム(「スト2」の発売は91年だが、本格的な格ゲーブームに至るのは「スト2ダッシュ」が発売された92年以降)が起きるまで、ゲーセンは冬の時代を過ごすことになる)、それはアーケードがシューティングゲームなどを始めとして、過激に難しくなっていった一方で、ナムコの作品を始めとしたファミコンソフトが、子供向けなのを踏まえつつ、彼らをやがてはゲーマーに育てるべく、成長を感じられるようなバランスをとり続けたから起きた移行だと私は考えている。

 そうした意味で、推理小説童貞といってさしつかえない私に、推理小説の作法に気付かせてくれ、次の挑戦に明るい展望を開かせてくれたこの小説は非常に「良い」作品だと言える。