『オイディプス症候群』笠井潔

オイディプス症候群

 読んでいる途中に、本書が「矢吹駆シリーズ」と言われるシリーズの作品であることを知った。
 シリーズものを途中から読んでしまって困るのは、やはり前作以前の話がでてきてしまうことで、作者が配慮してくれないと、ネタバレになってしまって、以前のシリーズを読む気分が無くなって、さらには「どうせ全部読まないから」と、その後のシリーズも読まなくなってしまうことですね。ある意味地雷に相当するね。

 さて、私はこの本はミステリーとしては駄作だと思います。いや、ミステリーなんかロクに読まない俺がなにを言うかって感じだけど、俺が見ても「それはちょっと」という……
 ここからネタバレありです。(少し行を開けます)












 全部しらべたとか登場人物に言わせておいて、浜辺の小屋をロクに調べてないとか(脱出可能なゴムボートまであるのかよ!!)、主人公であるナディアの考察に、明らかにコンスタンに対する考察だけが欠けているとか、夫人がそれまで存在がまったく明かされない地下に潜んでいるとか、ミステリーと称するには卑怯というか、穴ありすぎというか……
 もっとも、著者が書きたかったのは文章中に多々はさみ込まれる哲学談義であって、ミステリーはそのための飴だと考えれば腹も立たない……?
 じゃあ、ならば哲学本で発売しろよと思うのですが、それじゃ売れないからミステリーなのかな? という気もします。哲学本だったら単行本で3,200円という価格も不思議じゃないな(苦笑)。

 哲学談義の部分は、パノプティコンと探偵小説の関わりの部分が興味深かったですね。それを踏まえて、私の考え方を少々。

 ぶっちゃけ、「名探偵コナン」が子供に与えている影響は極めて大きいと思います。
 事件の中から真犯人を発見し、「真実はたった1つ」と事件というモノを単純化し、真理性を与え、さも監視、コントロールできるものであるかのように子供の前に提示する。
 犯罪行為への厳罰化とコナンの存在は、決して不可分ではない。「厳罰化によって、犯罪を減らす」という志向は、犯罪コントロールそのものだ。
 そして「見た目は子供」であるコナンの存在は、「どこにでもある監視の目」というパノプティコンを体現している。犯人が子供だと思って安心している時に、「頭脳は大人(って、高校生は子供だろ)」である新一は冷徹に犯人を監視しているわけだ。
 小説にとって「犯人の内実」は極めて重要かもしれないが、パノプティコンとしての探偵小説としてはそんなことは重要ではなく、ただ「最終的にパノプティコンが犯人を突き詰める」ことだけが重要である。「探偵小説のサイクル化」という決まって判で押したようなトリックと犯人の動機をくり返す、名探偵コナンという番組は極めてシステマティックに存在している。

 結論としては「ミステリーとしてはさほど面白くなかった」ということで。