『児童虐待』川崎二三彦

児童虐待―現場からの提言 (岩波新書)

 複雑化していく現代社会、親が自分の子供に暴力を振るう児童虐待の件数が増えている。
 そうした中、児童救済のための機関である児童相談所の仕事も増えており、「児童の安心安全」を求める社会からの期待も今までになく大きなものになっている。

 しかし、法的にも設備的にも、現状の児童相談所はそのような過大な期待を背負えるだけの機能を有していない。
 児童相談所は子供を親から隔離することができるが、親の暴力的な抵抗に対しては警察を介在させることぐらいしかできない。暴力に至らない限りは職員が執拗に抵抗されながらも、辛抱強く一時預かりの方向に話を持っていくしかなく、心的ストレスの大きさははかり知れない。
 子供を預かることができたとしても、それは一時的な保護に過ぎず、親元に返すためには親自身に対する指導が必要不可欠となる。しかし、指導勧告を無視したとしても、親に罰則規定はない。
 結局、傷害事件にならない日常的な児童虐待に対して、子供を一時的に隔離すること「しか」できないのが児童相談所の現状である。

 また、設備自体の問題も大きい。
 指針となる最低基準は昭和22年以来、ほとんど改訂されておらず、結果、児童に他の児童たちとの狭苦しい集団生活を強制することになる。これでは、各自さまざまな問題を抱えた児童を安定して保護することができない。
 さらには、男女の居住空間すら区別できない施設が63.9%もあり、24時間収容施設でありながら、職員の少なさのために24時間のケアができないという、非常にお粗末な実態がある。

 そうしたさまざまな困難の中で、筆者は児童福祉司として児童相談所で働き、実際に児童虐待の現場と対峙している。

 「どうしたら児童虐待をなくすことができるのか」という問題に私は回答を持たないが、少なくとも設備の問題に対しては、しっかりと予算を割り振ることで解決できる事が多いのではないかと思う。
 ただ、社会全体は夜警国家的な小さな政府を目指しており、そうした現状の中でこのような福祉政策に予算が回ってくるのかに疑問は残る。ともすれば「虐待を厳罰化すればいい」などという安直な警察化を望む声すら出てきかねない。そうなれば今まで以上に虐待を認めない親が増え、子供が家庭の中に隠匿されるだけだろう。
 私は、「子供の安全」という問題が、このような本を通して、広い視野で論じられる事を願ってやまない。

#文字数の制限があるために、本当の論点はぼやかして、本の紹介に終始しています。

 『デッドソルジャーズ・ライブ』山田正紀

デッドソルジャーズ・ライヴ

 んー、「あの人」が選ぶ山田正紀なら、やっぱり『影の艦隊』だろう。
 ……ごめん、冗談だ。

 山田正紀の描くSFといって、もっとも象徴的かつ力強い、彼の作家としての存在意義そのものと言えるテーマは「超越者との戦い」である。
 そしてそれは、デビュー作の『神狩り』で極めて具体的かつ印象的に描かれており、代表作を1つ選べと言われれば間違いなくこれを選ぶのだろうが、あの人の100冊は、すべて微妙にその作家の代表作をあえてハズしているところが特徴である。
 それで、超越者との戦いでありながら(この点、異論もありそうだが)、代表作であるとは言えない、この『デッドソルジャーズ・ライブ』があえて選択されている。

 意識共鳴スペクトローラーに意識の有無をひたすらに尋ねられ続ける“44”“29”“26”。
 彼らは時には仲間、時には夫婦、時には敵対者として、しかし常にお互いを意識、認識しながら、延々と臨死に至るストーリーを演じさせられ続けている。
 と、言われても読んでない人にはサッパリワケが分からないだろうが、これ以上書いてもネタバレにしかならないので、ストーリーを追うことはここでやめにしよう。禁則事項ってことで。
 とにかく、「生と死」「拘束と自由」という極めて普遍的なテーマに山田正紀が挑むと、こういう作品になるのかと感心する。

 そして、読後の極めて深い徒労感も、いかにも山田正紀らしい。というか、一回読むと半年は読みたくないね。面白いけど疲れるから。
 とはいえ、図書館で一緒に『神狩り』を読んじゃったし、ついでに発売直後に買って目を通していない『神狩り2 リッパー』も読もうと考えてしまっているわけで、中毒性の高い高い作家ですよ。
 まぁ、俺の他にも例の「100冊企画」を通して読んでみようとしている人は多いみたいだから、そういう人には山田正紀はぜひ覚えておいてもらいたい作家の一人です。
 ちなみに読みやすさと言う意味では、冒頭に書いた『影の艦隊』はオススメですね。でも、なかなか手に入らないか……。俺はたまたまブックオフで全巻揃って発見できたんだけど。

 ……感想ほとんど書いてないや……

 双頭の悪魔 有栖川有栖

双頭の悪魔 (黄金の13)

 困った。
 私はいままでほとんど推理小説というのを読んだことがない。
 だから、ストーリーやそのつじつまの良し悪しを判断する能力がない。
 そして、推理小説の書評というのは、そういう点でのみ行なうべきであって、現代社会に対する何か批評だったものを書評の材料にすることはできない。
 というわけで、私はこの本を書評できないハズなのである。

 でも、なんとか書評をしなければならない。
 ただ登場人物やストーリーのさわりを紹介するようなピア的な宣伝文句ではなくて、書評を……。
 困った。

 じゃあねぇ、私が読者の推理を要求される場面で、どんな感じに推理をして、その結果をどう感じたかを書いてみよう。

 まず分かったのは、人々がアリバイ等を話している場面については、しっかりとメモ帳を用意して書いたりしながら読み進めなければならないのだなということ。
 TVゲームなどについては、オートマッピングがついたり、マルチエンディングに至るためのルートマッピングは、もはや欠かせない機能となっているが、本には当然のようにそうした機能がないのだから、ちゃんとメモをしなければならない。
 「何を当たり前のことを」と思うだろうが、じゃあ今さらあなたの大好きなアーティストがアナログレコードでしか新アルバムを発表しないとなった時に、あなたはどう思うだろうか?
 CDがまだ「レコードと別の規格の盤」でしかなかった時代には、あなたは少々の不便を感じつつも、レコードプレーヤーとコンポを繋いで、そのレコードを聞いただろう。
 しかし、時代はi-Podを始めとする、MP3プレイヤーの時代である。
 CDならば、パソコンに読み込ませるだけで簡単にMP3ファイルを生成し、そこにi-Podを繋ぐだけで簡単にその音楽を外で聴くことができる。
 しかし、アナログレコードをMP3にするのは、決して容易ではない。できないことはないが、かなり面倒くさいし、そのための器材も入手しなければならない。
 と、今さら本を読みながらメモをして犯人を暴かなければならない推理小説は、極めて「面倒くさい」娯楽であると言えると、私は思う。

 ここからネタバレ配慮ナシなので「続きを読む」扱い。

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 赤頭巾ちゃん気をつけて 庄司薫

赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)

 とりあえず「教養小説といえば?」と考えて、真っ先に頭の中に思い浮かんだのがこのタイトル。
 モノをしらない2ちゃんねらーなら「それなんてエロゲ?」とでもいうのだろうが、これはれっきとした教養小説である。タイトルだけで偏見を持ってはいけない。

 舞台は学園闘争の嵐吹き荒れる時代の日比谷高校。
 今、日比谷高校と言っても、特になにかあるわけではない普通の公立高校だが、その当時は毎年200名近い東大進学者排出していたエリート高校である。
 そんな「悪名高き」日比谷高校に通う「庄司薫くん」は、女中さんがいるような家のいいところのおぼっちゃん。東大法学部に入ろうと準備していたものの、学園闘争の影響で入学試験の中止が決定。さらに十年ぶりの風邪をひき、なじみの万年筆は落とし、さらに12年買い続けた犬が死に、左足親指の生爪をはがしてしまうという、不幸のどん底にいる。
 物語はそんな不幸な薫くんが、幼なじみの、ふくらみかけのおっぱいを見せつけられたというエピソードをもつ女の子と、友達以上、でも恋人とはとても言えないような、なんとなくぎくしゃくした関係を露呈しながら、親指の治療にった先の医院では兄の元恋人と再会し、白衣にノーブラという格好で大変分かりやすく誘惑されて、それに全く反応できなかった自分の不甲斐なさと、ゴーゴークラブなどで好き放題やっている友達を比べて童貞を余計にこじらせてみたり、足の痛さをおしてわざわざ銀座に出かけ、そこで幼女に出会って一緒に本屋に行って「赤頭巾ちゃん」の絵本を買ってあげて、「僕は海のような男になろう」とか悟りだす、見事な教養小説………………これなんてエロゲ

 いやいや、上記の粗筋は近所のPTA的な奥さんに捕まって今後の進路をあいまいなまま告白させられたり、芸術派の総裁みたいな悪友が、自らの今後を諦念とともに自白したり、その他の部分ではずーっと薫君自身が「自分」ということを考えているという描写をわざと外しておいて、エロゲ呼ばわりも卑怯なのだが、それでも「教養小説」といういかにもな重苦しげなジャンル名から想像される内容ではない。

 この本が発表された当時、日比谷高校の中で「庄司薫探し」が流行ったそうだ。当初、この本は「私小説」であると思われていた。
 しかし、当の本人、庄司薫という筆名をもつ「福田章二」は10年も前にとっくに日比谷高校を卒業、当然のように東大に入り、政治学科を卒業している。すなわち『赤頭巾ちゃん』に出てくる「下の兄貴」あたりが年齢は違えども当の福田の立ち位置であり、作中で兄貴と薫くんが一緒のときに偶然出会った「すごい思想史の講義をしている教授」とされる人物のモデルは、福田の法学部時代の恩師、丸山眞男である。
 閑話休題
 そして日比谷高校で話題になったこの本は、第61回の芥川賞を受賞している。

 結局、これを読んで私が思ったのは、すなわち「教養小説」の教養たる部分は、結局は東大周辺の一部エリート層による既得権の保持を前提とした、内輪ウケでしかないということだ。
 生まれた時から幸福が約束されている層の人間たちが、こうした本を読んで人生に悩んだということにしてしまう。そして人生に悩んだということにした人たちは、自らが得る幸福を「悩み→幸福」という成功体験に置き換える。

 ただし、こうした道具としてこの本が存在しているということに、著者の庄司薫……庄司薫だと作中の薫くんと著者の区別が付きにくいので、ここでは著者を福田章二で統一するが、この本が必然的に「ぬるま湯の中の免罪符」となるであろうことに対して、著者の福田が盲目だったとは思えない。
 本書に描かれる「薫君の不幸」など、ハッキリいって不幸でもなんでもない。足の親指の爪をはがしたぐらいのことが不幸として描かれることは、むしろ彼らのぬるま湯のような幸福と欺瞞を暴きたてているとは言えないか?
 また、描かれる薫くん以外の勉学と遊興を無理矢理成立させる日比谷高校生の奔放さと、その一方で東大進学者数が(多分、当時既に勉学一本槍であったであろう)灘高校に抜かれてしまったという部分は、日比谷高校生のありようを批判することになっているのではないか。
 また、武田さんによると、当時闘争の中で睨まれがちな立場であった中央公論社の社長中央公論の編集長(06/09/29訂正)と福田が知り合いであって、そうした学生たちの憤懣の矛先を逸らすために、この本を「あえて書いた」というエピソードもあるそうで*1、そうなると、この本のスタンスというものを単純に「教養」と考えることには、躊躇せざるをえない。

 文章自体は決して深くはない文体であり、それはさながらライトノベルを彷彿とさせるものだが、「メディアミックスで関連グッズを大量に売る」という最終目標が明確であるライトノベルと比べて、本の存在そのものが社会的な各種題材を内包しているという本書の立ち位置は、極めて複雑かつ雑多であり興味は尽きない。

深夜のシマネコ読書録 開始にあたって


 本日より、このBlogは「深夜のシマネコ読書録」として再会します。

 目指すところとしては、自分の中であるテーマを設定し、その中で本を選択し、読んでいくことです。
 テーマ自体はただの思いつきで、相互に関連性のある物ではありません。
 当面のテーマは3つ。

 1、読書会用
 細かく詳細は書きませんが、某読書会関連の書評をまとめていきます。

 2、教養小説
 かつて教養小説と呼ばれた物を読み、エリートたちの教養感を暴きたてていきます。

 3、あの人の100冊+α
 某キャラクターの100冊+「なに読んでるの?」な本を読んでいきます。別にコンプリートする気はありません。
 某キャラクターとは誰かという質問には答えませんし(ググった方が早い)、別に名前を隠す意味もありませんが、その辺は茶目っけということで。

団塊は苦労してへんやろ

三浦展の『ファスト風土化する日本(以下 ファスト風土)』をゆるゆると読み終わった?

 で、詳しくはあとでまとめて書きますが、単純に感想を記すと「あれ? まともなことを書いている」。

 確かに最初の方は『下流社会』にも見られるようなトンチンカンな議論(時空まで乗り越えて(笑))をくり返しているワケですが、最後の方になると、大店法を廃止して郊外の「田園都市化」を押し進めた、すなわち、巨大ショッピングモールなどを優遇し、商店街を中心とした地域コミュニティーをを破壊した国の政策に対する批判をしているんですね。これは『下流社会』に見られるような安直な若者批判とは、全く主旨が異なっています。

 特に、『下流社会』とは真逆のことを記している部分があるので、比較してみましょう。

下流社会 p.39』


 思えばトヨタクラウンの発売は1955年である。55年体制のはじまりとともにクラウンは登場し、その後、カローラ、コロナ、そしていつかはクラウンという典型的な階層上昇形消費モデルを提示することでトヨタはフルラインナップ型の大企業へと成長した。まさに一億総中流化時代を象徴するのがクラウンなのだ。

 と、高度経済成長期の象徴でもある日本型のモータリゼーションを讃美し、「階層上昇形消費があったからこそ、日本は豊かであったのだ」という論陣を張っている。

ファスト風土 p.186-187』


 高度経済成長期以前の日本は基本的に農業社会であり、多くの国民は「共産共同体」としての地域社会(共同体)のなかに埋めこまれていた。

(略)

 しかし、高度経済成長期、急激な勢いで日本人は、農民や自営業者などから雇用者や勤め人へ変わった。それに伴って家族は核家族化し、家族が一緒に働くことはなくなり、(略)つまり家族は根なし草になったのだ。

(略)

 つらい仕事も、単調な家事も、つまらない勉強も、より多くのものを消費し、より高価な耐久財を購入できる喜びによって相殺された。(略)すなわち、家族は「より豊かな生活」という、消費あるいは私有の目標を共有することで一体感を味わうことができたのである。

(略)

 さらに家族は会社および会社が所属する企業グループがつくりだす製品を買うことによって会社に貢献した。三菱グループの社員は、三菱銀行に預金し、三菱地所の家を買い、三菱自動車に乗り、三菱電機の家電を買って、キリンビールを飲んだわけである。

(略)

 しかし、それは「私(ウチ)」の会社と「私(ウチ)」の家族の中に閉じこもるという意味で、公共性を喪失した「私生活主義」「私有主義」であり、「市民」ならぬ「私民」主義であった。

 2ページを無理にまとめたので略が多くて申し訳ないが、『ファスト風土』では『下流社会』で見られる、過剰ともいえる高度経済成長に対する翼賛がないどころか、それを批判的に捉えている。

 特に「企業グループ」に対する批判は、『下流社会』においては「いつかはクラウン」という考え方を「階層上昇形消費」と考えているのに対して、『ファスト風土』では「私(ウチ)の中に閉じこもる」と、否定的に考えている。

(単に三浦展トヨタグループが好きで、三菱グループが嫌いなだけなのかもしれない。普通の論者に対してなら非常に失礼なこの考え方も、「パルコとジャスコ」という例があるだけに、そう疑わざるをえない)

 そして、さらにここから「コミュニティ」の重要性という点でこのような例を挙げている。



ファスト風土 p.189』


 では、「消費」や「私有」という基礎のうえに成り立つ新しい原理はなんなのか? 結論からいえば、それは、「関係」(コミュニケーション)と「関与」(コミットメント)の原理であり、新しい「コミュニティ」の原理であろう。

 そういうと大げさだが、時代の予兆というのは些細な部分から表われてくるものだ。たとえば、近年、若者のあいだで衣服や雑貨の手作りが流行しつづけている。古着をリフォームしたり、他の布とあわせてリメイクしたり、ビーズでアクセサリーをつくったりし、それをフリマ(フリーマーケット)で売ったりする。それは、ただ物を消費して所有するだけではなく、自分が物に対して自由に関与することに喜びを見いだし、かつ関与することで自分と他者との関係を産み出し、さらには他者から承認を得ようとする欲求の表われだといえる。

 一読してして明らか。ここで述べられている若者像は明らかに三浦展いうところの「かまやつ系」だし、三浦展が執拗に批判する「自分らしさを求める若者達」である。それをこの時点では「新しい原理の一例」として讃美している。



 この『ファスト風土』が出版されたのが2004年の9月、『「かまやつ女」の時代(以下 かまやつ)』が2005年の3月、『下流社会』が2005年の9月。『かまやつ』と『下流社会』での姿勢は一貫していることから、『ファスト風土』から『かまやつ』までのせいぜい半年の間に、いったい三浦展にどんな心境の変化があったのか。私が気になるのはそこである。

テレビ朝日ゼロトレランス翼賛

 爆笑問題が出ている番組で、ゼロトレランスを最大翼賛していた。

 VTR内で、ゼロトレランス教育を「子供の暴徒化に効果のある教育」と紹介、その後スタジオで教師やタレントたちが賛成反対に別れてエセディベートをしていたものの、VTRで「効果のあるもの」と紹介していたのだから、その時点で大嘘。

 ゼロトレランスなどという「教師=大人は絶対に正しい」という尊大な理想論でしかない非現実的な方法は、教育の問題を潜伏させ、社会を大きく歪ませるものに過ぎない。

しかし、なんなのでしょうね。あの「団塊世代は苦労してきたんだ」という言い分になんら疑問を挟まない現代日本の情景ってのは。

 掲示板の方にも「団塊はおしゃれもできなかった」などと書いていた人がいましたが、VANの存在あたりを下地にして、団塊の世代が若者になるあたりにちょうど現在へと繋がるファッションの隆盛があったことは、ファッションというものに全く興味のない私でも、ふつうに知っている事実です。

 もちろん、それが都心の一部の人たちのものであることも知っていますが、それは昔も今も同じことです。おしゃれな若者もいますが、おしゃれではない若者だっていくらでもいます。

 掲示板で「団塊はおしゃれが……」と書いた人が「ファッションは生活余剰資金で為されるもの」とも書いていましたが、余剰というのはイコール「豊かさ」のことです。ならば、彼らが若者の頃にはすでに社会はファッションを生み出すほど、十分に豊かだったということです。

 しかし、世間一般で想像されているであろう団塊のイメージは、どうも昭和ヒトケタ世代のそれです。

 「若者」という言葉で、団塊ジュニア(35歳ぐらい)から中学生(14歳ぐらい)までもが一括りにされるのですから、上も昭和ヒトケタと団塊が一括りにされてしまうのも道理なのかも。

 しかし、団塊世代は確実にそれを利用して若者の罵倒をしているのですから、我々はそうした世代を明確に区切ることによって対抗するべきです。「世代論」というと、忌避したがる人たちもいますが、団塊が世代論を治めて曖昧な区分において、自分たちを「苦労してきた世代」に入れ込もうとするなら、我々はそれに対抗して、細切れに世代論を語って、団塊世代を「戦後の裕福な世代」に区分する、もしくは、「戦前」「戦後」という線引きを用いて、団塊世代までを現状の「若者」側に入れ込んでしまう、そのどちらかの戦略を取らざるをえないと、私は考えます。

 そういうわけで、私は細切れに世代を捉えながら、時々「戦前」「戦後」の線引きを使っているというやり方をしています。

なかなか文章が書けない……

<環境省>CO2削減で本省は「午後8時消灯」

 イメージ戦略のつもりなんだろうけど、逆に8時に全員退社できるような労働環境にに対して悪感情が出る気が……

<新聞特殊指定制度>「維持すべき」が73% 世論調査

 戸別配達(という名前の押売り)の話に触れてないのはワザとだろうな。新聞業界必死杉。一方で規制緩和を叫びながら、自らの特権は固持か。